活動報告

   

<夏のワークショップ>
日時
平成16年8月23日(月)13:00〜24日(火)
場所
NASPA ニューオータニ(越後湯沢)
(プログラム)

8月23日(月)

テーマ:Genes and Cognition V
13:00-13:10 開会の辞 井原康夫(東京大学・大学院医学系研究科)
 (セッション1)
    座長: 貫名信行(理化学研究所・脳科学総合研究センター)
13:10-14:00 「文法遺伝子は本当にあるのか」酒井邦嘉(東京大学・大学院総合文化研究科)
14:00-14:50 「躁うつ病の分子基盤」加藤忠史(理化学研究所・脳科学総合研究センター)
14:50-15:40 「BDNF多型とヒトの海馬機能」 小島正己(産業技術総合研究所・セルエンジニアリング部門)
15:40-16:10 休憩
  (セッション2)
    座長:木村實(京都府立医科大学・大学院医学系研究科)
16:10-17:00 「フェロモンと嗅覚の記憶の分子機構と遺伝子発現」椛秀人(高知大学・医学部)
17:10-17:50 「マカクザルにおける色識別の神経機構」小松英彦(自然科学研究機構・生理学研究所)
17:50-18:00 閉会の辞 丹治順(東北大学・大学院医学系研究科)
8月24日(火)
9:00 -12:00
A01班班会議(シリウス)
9:00 -15:00
A03班・A04班合同シンポジウム(A会場)
9:00 -13:00
A02班・B01班合同班会議(C会場)
9:00 -17:00
B02班・B03班合同班会議(B会場)

「夏のワークショップ」報告

(1)桑野 良三(新潟大学・脳研究所・付属生命科学リソース研究センター)

‐ 「躁うつ病の分子基盤」 ‐

 物質的な裏付けのない気分や精神活動を、生物学的解析の“まな板”に載せて解明していく興味深い講演であった。躁うつ病の定義から入って、“まな板”へのアプローチ、ミトコンドリア仮説を実証する研究紹介と続き、双生児不一致例の研究その後、で締めくくられた。講演のメインディシュのミトコンドリア説を、あったかいまま伝えられるか心配である。
 躁うつ病は、現在は双極性障害と呼ばれ、躁状態とうつ状態の病相を繰り返して、再発間隔が次第に短くなる特徴があって、100人に1人の割合で発症し、遺伝体質が関与すると考えられている。発症率が5〜10人に一人で、一年で治療が終了し再発しないcommon diseaseうつ状態だけのうつ病とは区別される。治療薬としては、気分安定剤が使用されているが、症状に合わせた対症療法にとどまっているので根本的な治療法の開発、テーラーメード医療などに向けて原因を解明したい。また、気分や感情といった特殊な病態の分子基盤を明らかにしたい。
 研究の方法として、目に見えない現象が相手なのでどの方法でも限界がある。薬理学的研究では、症状を反映した解析である。脳画像解析は、直接脳を観察できるので強力な方法であるが、投薬なしでの観察は困難であるし、一致した特異的所見がない。死後脳研究も直接脳を解析できるので有効であるが、薬を飲んでない患者さんはいないし、健常者と死因が異なるので問題がある。血液細胞を用いる研究は、血小板やリンパ芽球の細胞質カルシウム濃度が高いことは一致しているが、脳ではない。遺伝子解析の方法はよく使われるが、多因子が関係しているし、連鎖解析は躁うつ病にうつ病が入るので結果が異なる、得られた連鎖領域が否定されるなどで限界がある。
これらの制限や限界がある中で、確かな症状改善薬を手段に研究を展開することになる。抗うつ剤やコカインがシナプスでモノアミンを増す。一方、うつ状態を引き起こすレゼルピンは、シナプス間隙のモノアミンを減少または枯渇させることから、モノアミン仮説は広く受け入れられている。しかし、これは症状に伴って変化するのであって原因ではない。リチウムの薬理作用は、亢進しているイノシトールリン脂質系のイノシトールモノフォスファターゼを阻害して細胞内のイノシトールを枯渇させて効くと考えられてきた。ところが、1998年NIMHのグループの論文によって、研究の流れが大きく変わった。彼らはラット初代培養ニューロンをリチウム存在下で培養すると、グルタミン酸による細胞死がおこり、リチウム作用機序にイノシトールを介さない系があることを報告した。そのほか、動物や細胞にリチウム、バルプロ酸を投与してDifferential display法で解析した結果、GRP78やBCL2の増加が報告された。また、リチウム、バルプロ酸、カルバミドが神経成長円錐を大きくし、neurogenesisを増していることから、気分安定剤の共通作用は神経保護作用ではないかと考えられている。このように、いろいろな報告があるが、これらに対応する分子病理は何か?を明らかにしていくことが大切だと考える。 講演は、ミトコンドリア仮説に至る経緯と検証の紹介に進む。
 15年前、臨床に応用されはじめたMRIに注目した。核磁気共鳴はもともと画像を撮るより化学分析に使用されていたので、人の脳で脳エネルギー代謝やリン酸の測定に応用してみた。磁気共鳴スペクトロスコピーを用いたイノシトールリン酸を測定する研究の過程で偶然に、寛解期に無機リン酸のピークが右にシフトして脳内が酸性に傾いていること、うつ状態でクレアチンリン酸が低下することを発見した。これは細胞レベルの代謝の問題ではないかと考えるようになった。躁うつ病の光刺激に対する反応が、ミトコンドリアに障害がある慢性進行性外眼筋麻痺と類似していた。ミトコンドリアDNA病の一部にうつ病や統合失調症を合併している、うつ病の合併する疾患で、核遺伝子の異常がミトコンドリアDNAに障害を与える、核遺伝子がミトコンドリアのカルシウム濃度を変化させる、うつ病は母系遺伝する家系が多い(MacMahon)、などの報告がある。また、細胞内カルシウム貯蔵は小胞体のみならず、近年はミトコンドリアが見直されてきた。ミトコンドリアのカルシウム貯蔵がシナプスの可塑性に関係するらしいので、精神疾患にミトコンドリアが関与しても不思議ではないだろう。これらのことから、躁うつ病はミトコンドリア障害と関連しているのではないかと、ミトコンドリア説を提唱した。
1)ミトコンドリア障害がカルシウム濃度を制御している。
ミトコンドリア病に随伴した身体症状を伴う躁うつ患者6人(孤発例1、母系遺伝と矛盾しない5例)の全周配列を解析して、complexIの3644Cミスセンス変異(Val->Ala )に着目した。この変異の生物学的意義について、サイブリッドを用いてミトコンドリアの機能解析をした。サイブリッドは、r0細胞(mtDNAを欠損した細胞で、ウリジン存在下の培養で生きる)と、患者あるいは健常者の血小板(ミトコンドリアが含まれている)を融合させ、ウリジン不含有培地で融合細胞だけを選択する。血小板は核遺伝子がないので、サイブリッドは細胞核DNAの影響を受けることなく、ミトコンドリアDNAの異常及びその発現の解析ができる。ミトコンドリアを蛍光色素JC1で標識して FACSで調べた。健常者のミトコンドリアでは分極した細胞がほとんどであったが、3644C多型を持つ細胞ではかなりの細胞が脱分極し、complexI活性が低下していた。3664C多型は、健常者(1/733人、0.1%)に比べて躁うつ病(9/621人、1.4%)に多いので、3664Cは躁うつ病のリスクファクターらしい。
2)ミトコンドリアDNA多型が細胞内カルシウム濃度に影響するか?
 カルシウムイオン感受性タンパク(Pericam)にミトコンドリアTag配列を結合して、ミトコンドリア特異的にPericamが発現するr0細胞のstable cell lineを作製した。このr0細胞と血小板とのサイブリッドを作ってミトコンドリア内カルシウム濃度の変化を調べた。35細胞でミトコンドリアのカルシウム濃度を測定して全周配列解析を行った結果、8701多型と10398多型がミトコンドリアのカルシウム濃度に関連することを見つけた。10398A型はミトコンドリアのカルシウム濃度高く、C型は低かった。前記のMacMahonが報告した母系遺伝する9家系のうつ病に10398A多型が見つかった。10398A型の患者で上がっているカルシウム濃度は、気分安定剤リチウム、バルプロ酸で下がったが、G型は変わらなかった。ミトコンドリアDNA多型はカルシウム濃度に影響を与え、それが躁うつ病の危険因子となっているのではないか。10398A多型で上昇したカルシウム濃度を、リチウムが下げることで効くと考えられる。
3)異常ミトコンドリアDNAをもつトランスジェニックマウスの解析
ミトコンドリアDNA合成酵素polymeraseγの一カ所に変異を導入して、プルーフリーディング活性を損なった酵素を作製する。この変異遺伝子をCaMKIIのプロモーターにつないで神経組織特異的に発現させる。この酵素によって異常ミトコンドリアDNAが神経組織特異的に蓄積するトランスジェニックマウスを作出した。慢性進行性外眼筋麻痺の家系に、polymeraseγの異常が見つかったとの論文が最近報告された。このトランスジェニックマウスの周期的行動変化やモノアミンの変化を観察しているので、躁うつ病のモデル動物にならないかと期待している。
4)一卵性双生児の不一致例のその後
一卵性双生児のうち一方だけが躁うつ病を発症した2ペア4人の末梢リンパ芽球を調製し、発症と未発症との間に遺伝子発現に差があるかをDNAマイクロアレイによって比較した。小胞体ストレスに関連のXBP1とGRP78の遺伝子発現量に差があった。XBP1は自分の遺伝子プロモーターに結合して転写活性を上げる。XBP1プロモーター領域にXBP1結合型(C/C、C/G)非結合型(G/G)の遺伝子多型があり、C型はリチウムが効き、G型はリチウムが効かずバルプロ酸が効く。これらの遺伝子多型と躁うつ病の関連について、今年の8月になって3倍のサンプル数で欧米人や中国人では関連が無いらしいとの報告があった。XBP1よりGRP78が強く躁うつ病に関連しているらしいので、その機能解析をしている。また、XBP1G/G型が統合失調症の危険因子らしい、GG型の脳画像で側頭葉が小さいとの共通所見がある、染色体22q11-12が統合失調症と共通に連鎖するなどの研究がある。カテコールアミン神経を破壊したうつ病モデルの海馬でXBP1が低下していたとの報告があり、モノアミンと関連するかもしれない。GG多型の人にカルシウム濃度が高いらしいなどの結果が得られている。これらの研究では、遺伝子多型と躁うつ病を直接関連付けるのは難しいので、遺伝子解析方法に測定可能な中間表現型を入れて、躁うつ病と中間表現型、中間表現型と遺伝子多型に分解して解析する研究戦略を提起したい。
 と講演が締めくくられた。講演のなかの「躁うつ病はミトコンドリア説で決まりだ!」の一言は強烈で今も耳の底に残っている。講演の内容を報告するにあたって、聞き逃した点や間違っているところがあるかも知れないので、不審な点や関心のある方は、ぜひ直接、加藤先生に聞かれることを勧めます。


(2)石浦 章一(東京大学・大学院総合文化研究科)

‐ 「若いことはいいことである」 ‐

 酒井邦嘉(東大・院・総合文化)は、「文法遺伝子は本当にあるのか」という題で、以前明らかになった難読症原因遺伝子FOXP2遺伝子のことを概説し、残り半分は脳が文法をどう捉えているかという点についてfMRIを駆使した自身の研究結果について報告した。
 私は分子生物学を研究しているので、動物のコミュニケーション手段には類縁のものがないとか、ヒトは再帰的計算ができる、などの話は普段なかなか出会える話ではないので、大変興味深く聞かせていただいた。難読症家系KEでのFOXP2変異は確かに症状と相関があるのだが、酒井が主張していたようにこの家系では言語障害のほかに認知障害や運動障害も認められるため、FOXP2が文法の遺伝子と断定するには弱い証拠しかないように思われた。どうも、FOXP2の発現部位と言語野との関係がはっきりしないのと、転写因子FOXP2の標的・発現時期などがわからないために、いまいち言語・文法との対応関係が明らかではないようである。第一言語獲得時期、第二外国語習得時期など時期特異的な言語獲得と遺伝子発現などの間にどういう関係があるのだろうか。FOXP2の内部にあるグルタミンリピートのためにクローニングしづらいせいもあるのだろうか、この分子の生理作用がなかなか報告されないので、フラストレーションがたまる。
 私自身が興味を持っているのは、酒井は言及しなかったがもう一つのコミュニケーション異常である自閉症関連遺伝子の機能である。自閉症家系においては、FOXP2のみでなく、neuroligin3などのシナプス関連分子の変異や、言語野・聴覚野の機能変化も報告されている。そこで、まず言語野といわれているところの特異的遺伝子発現などを見ないと何もわからないのだが、ヒトの言語野の同定と剖検の間には気が遠くなるほどの時間がかかると言われて、仕事が滞っている。誰か、やってくれないだろうか。
 話は戻るが、やはり酒井の仕事のポイントは彼が同定した文法判断部位である。文法課題を使って主語や代名詞の本体を問うわけだが、この方法で酒井は、単語記憶ではブローカ野、文法判断はそれよりちょっと背側に広がった部位の機能が高まることを明らかにした。ウエルニッケ野での変化はないのかという質問も出たが、個人差がある(聴覚刺激のときのみ出る)ので、という答に妙に納得してしまった。
 酒井は最後に、教育効果とfMRIの結果について、日本の双生児を用いた実験で、英語の成績向上はブローカ野の活動増加と正の相関がある、と述べた。私は、教育効果、臨床心理の効果、PTSDが起こっているか、などは脳を見ないとだめだ、と前から言っているので、酒井の結果は我が意を得たり、というところである。しかし、こういうところこそ、データをしっかり集めないと反論が飛んでくるところなので、慎重にデータとともに話してほしいと思った。
 実は酒井は私の同僚なのだが、いつ彼の話を聞いても、言語がわからないようでは人間の話はできませんという彼の奔放な言い回しに、若いことはいいことだなあ、と思ってしまうと同時に、歳をとって言いたいことも言えなくなった自分が恥ずかしくなる。彼には、どんどんこのような仕事を続けてもらって、古典的心理学を壊滅させてほしい。それと同時に、分子レベルで知的機能を追う若手の出現を心から願っている。

 小島正己(産業技術総合研究所)も、若々しい発表を行った。BDNF多型バイオインフォマティックスから釣り出し、その多型の機能を遺伝子導入実験で明らかにすると同時に、多型を持つ人の表現型まで追いかけた研究である。
 ニューロトロフィンの1つBDNFは、NGFとは違って神経の分化に関与している。受容体であるTrkBから種々のシグナル伝達過程を経て、突起を伸長させたり、シナプス可塑性や、神経生存に効いているといわれている。このBDNFは、約32kDaのプレプロ体で合成され、切断が起こって15kDaの成熟BDNFになる。小島が見つけた多型はプロ領域にあるのだ。
 私が理解したところによると、66番目のバリンがメチオニンに変化したV66M変異体をSindbis virusを用いて細胞に導入したところ、細胞内局在が変わり、変異体は分泌顆粒に入らずに一部はリソソームに行く、というようなことだった。人でも多いこの変異では、BDNFの分泌能が変わるという結論だった。ちゃんとプロ領域は切れているのに変だなあ、というわけである。普通なら変異体の凝集能などを見るのだが、ここでは調べていなかった。
 一番面白いのは、このV66M変異の人の知能が調べられたことである。133人のうち、V/VすなわちVのホモの人が67%、V/Mというヘテロの人が28%、M/Mという変異のホモが5%であったが、エピソード記憶を測定すると、だいたい70、60、40点になったというのである。驚くべき結果だが、残念ながらM/Mの人の数が少なくて、ぱっと見には年齢構成が合っておらず、米国では相関があったが日本ではなかったという前例もあるので、BDNFと記憶力の関係は日本での例をつけ加えて、もう少し慎重に判断すべきだろう。
 小島が示したもう1個所の変異は、プロ領域が切断されるところにあるfurin認識配列のRVRRの部分である。最初のアルギニンがメチオニンに変わったR125M変異、三番目のアルギニンがロイシンに変わったR127L変異では、別の受容体であるp75に結合して細胞死(アポトーシス)を引き起こすのであった。実験はじつにスマートであり、データもきれいで、その馬力に感心した。しかし、イントロでこのRRXRという配列を見ただけでfurin型プロセシング異常が原因らしいこと、前駆体がプロセシングされないで外液に出ることなどは私でも予測がつくことなので、あの発表・討論の仕方では若いと言われても仕方あるまい。
 年寄りがうるさく言って申し訳ないが、多型があって、その活性を追ったら大きな差が出るということはよくある。よくもまあ、人で記憶力に差があった、運が良かったね、というのが正直な感想である。あとで追試されて、あれは実はアポEの多型のせいであった、ということがないように祈りたい。

(3)神谷 温之(北海道大学・院医学研究科)

‐ 先端脳夏のワークショップ感想 ‐

 ワークショップ後半では、椛秀人氏(高知大医・生理研)が「フェロモンと嗅覚の記憶の分子機構と遺伝子発現」というタイトルで、引き続き小松英彦氏(生理研)が「マカクザルにおける色識別の神経機構」というタイトルで、それぞれのライフワークともいえる内容について講演を行った。両氏のアプローチは、ボトムアップとトップダウンという意味で対照的であるが、それぞれに研究のポリシーや信念が伝わってくるような発表であった。まさにgenes and cognitionというテーマならではの組み合わせで、本特定領域のような分野横断的な班会議の意義を改めて認識することができた。以下で両氏の講演内容の概要をまとめてみたい。
 椛氏は講演の冒頭で、氏の研究対象を「“絆”の神経基盤」と表現した。(1)夫婦の絆のモデルとしての雌ラットに形成されるフェロモンの記憶、(2)母子の絆のモデルとしての幼弱ラットの匂い学習、(3)成熟ラットの匂い学習、の3つのテーマについて、電気生理および行動解析を中心とした多角的な実験手法に基づいた氏の一連の研究成果が紹介された。第一のテーマである交尾に伴って雌ラットに形成される交配雄フェロモンの記憶は、交配した雄以外の雄のフェロモンに曝されると流産を引き起こし、妊娠の成立に不可欠な記憶である。鋤鼻嗅覚系の中でも副嗅球が重要な役割を演じ、交尾を契機に青斑核からのノルアドレナリン性入力によって連合性記憶を生じると考えられているが、その細胞・分子レベルでのメカニズムについては不明であった。椛氏らは副嗅球スライスを用いた電気生理実験により、僧房細胞・顆粒細胞間の相反シナプス(グルタミン酸とGABAが双方向性にシナプス伝達を行う)で長期増強LTPが生じること、LTP誘発の最適刺激は10 Hzである(海馬では100 Hz)こと、短い閾値下の条件刺激でもノルアドレナリン共投与でLTPが生じる(ゲートされる)こと、この作用はα2受容体を介することなどを明らかにした。また、ノルアドレナリンの作用機序を検討したところ、微小EPSC頻度の減少と、プレシナプスである僧房細胞の高閾値型カルシウムチャンネル電流の減少がみられたことから、ノルアドレナリンは僧房細胞からのグルタミン酸放出を抑制すると考えられた。この結果は、ノルアドレナリンがLTPを起こりやすくするという結果と一見矛盾するように思われるが、この点は以下の実験結果に基づき説明された。LTPを誘発する10Hz刺激中の膜電位を記録すると、反復刺激中に活動電位発火の順応が強く生じたが、ノルアドレナリンでシナプス伝達が減弱すると10 Hz刺激中のプラトー電位が低下し、結果的に連続して活動電位発火が生じた。シナプス伝達を低下させることで、ポストシナプスニューロンの発火数を増加させフェロモンの記憶を生じるとの結果は、あらためて神経細胞の情報処理の巧妙さを認識させ、大変印象的であった。第二のテーマとして、幼弱ラットの匂い学習を主として行動実験のレベルで解析した成果が紹介された。匂い物質の曝露と肢への電撃ショックを組み合わせ、24時間後に匂い物質を再提示すると、連合学習により忌避反応を生じる。この系を用いて匂いの長期記憶の分子機構を解析した。海馬可塑性研究で注目されるCREBについて、長期記憶成立に伴いCREBリン酸化が増加し、またアンチセンス投与で長期記憶が阻害されたことから、匂いの長期記憶にもCREBが関与することが示された。また、リン酸化酵素MAPK阻害剤でも学習が阻害されたことから、MAPKも関与することが示された。さらに、第三のテーマとして、匂いの記憶の細胞機構として、主嗅球でのLTPに関して調べたところ、いくつかの点で副嗅球でのLTPと異なることが明らかとなった。主嗅球では最適刺激は100 Hzで、この点では海馬LTPに類似する。また、ノルアドレナリンが作用する点は同じだが、主嗅球LTPにはβ受容体が関与する。またL型カルシウムチャンネルブロッカーが主嗅球LTPを強く阻害するが、NMDA受容体阻害剤の効果は弱かった。副嗅球で生じるフェロモンの記憶と、主嗅球で起こる匂いの記憶が異なるメカニズムで制御されるとの結果は、それぞれの記憶の機能的差異を考えるうえで興味がもたれた。膨大なデータに基づいた椛氏の講演を通して強く感じた点は、優れた実験系を見極めることの重要性である。フェロモンと匂いの記憶に焦点をあてた研究展開は、細胞レベルでの変化と、行動レベルでの可塑性を結びつけることが可能な点で、今後の可塑性研究の目指すべき方向性を暗示しているとの印象を抱いた。
 ワークショップ最後の演者となった小松氏の講演では、視覚情報、中でも物体認知に不可欠な色に関する情報が脳内で処理されていく過程について、基礎的な背景から最新の研究成果までを示された。最後に話された「光に色はない。色を作るのは脳の働きである。」との認識はいうまでもないが、認知脳科学的なアプローチによる精密な実験結果に基づいてここまで明らかにされているのかとの感触をもつことができた。
 視覚情報の大きな流れとして、網膜を発した情報が、外側膝状体、一次視覚野に達し、これが動き・形・色などの視覚の属性に応じてdorsal pathwayとventral pathwayに運ばれ情報処理を受ける。この中で、色に関する情報はV4、下側頭皮質へとventral pathwayを経て送られる。網膜から下側頭皮質へ色情報が送られる中で、レベル毎にどのような情報処理が行われるかを明らかにするために、ヒトと同様の色覚を有するマカクザルに注視課題を行わせ、受容野に種々の色刺激を与えて、外側膝状体、一次視覚野、V4、下側頭皮質ニューロンの応答を記録するという一連の実験を行った。色度図上に一定間隔で分布する刺激のセットをコンピュータディスプレイ上に提示することで、色に関する属性を系統的に変化させ、各レベルでの応答にどのような特徴があるかを比較する膨大な実験結果から、以下の事実が明らかになった。網膜錐体レベルでは三種の錐体による三色性の色覚が行われているが、外側膝状体レベルでは反対色説を反映するような色選択性を示し、二軸表現により情報伝達が効率化されている。これが大脳皮質に運ばれると、一次視覚野や下側頭皮質では色相や彩度に選択性を示すニューロンが現れ、多軸表現と表すべき色表現がなされている。ここで、反応等高線が折れ曲がりを示すという色相彩度選択性ニューロンの反応特性は、信号処理に二段階の整流性を仮定することでシミュレートできるとのことであった。どのようなイオンチャンネルと神経回路の関与を想定しているのか、どのような実験データがこれをサポートしているのかに興味が持たれた。講演後は、一次視覚野と下側頭皮質での色選択性の差異、トレーニングによる学習の効果、用いた刺激、大脳皮質での多軸表現と色カテゴリーとの関係などに関する質問があり、活発な討議が行われた。この記事の筆者は専門の研究分野がシナプス生理であり、日ごろ触れる機会の少ない内容に関する講演ではあったが、トップランナーゆえの明快さに引き込まれるようにして講演を聞き終えた。もうひとつの個人的な感想だが、異分野ゆえにデータが直感的に理解できないことが何度かあった。分野横断的な班会議に参加する恩恵を受けるためには、日ごろから視野を広げ、さまざまなデータに触れておく必要があることを痛感させられた。
 システムニューロサイエンスの最先端を行く両氏の講演を聞き、それぞれに魅了されたものの、改めて細胞・分子レベルからのボトムアップ的視点と、脳高次機能に関するトップダウン的視点に、大きな隔たりがあることを再認識させられた。この隙間をうめていくためには、現時点でのそれぞれの到達点を理解する努力が不可欠であろう。分野を越えた統合的な脳研究の推進を謳う新規特定領域「統合脳」発足が呼び水となって、日本の脳科学者の専門分野間の連携がますます推進されることを期待したい。