活動報告

     

「cDNAの核内直接注入によるBDNF動態の可視化」

津本忠治(大阪大学大学院医学系研究科神経統合機能分野)

 1. 研究の背景。
 神経細胞がその突起を伸ばし、さらに長期間生き残るには突起の標的となる細胞から栄養因子を受け取る必要があるという概念は、Levi-Montalciniらの神経成長因子(NGF)の発見以来の古い話であることは良くご存知のことと思います。ただ、NGFそのものは特定の部分を除いて脳内には少ないことがその後判明し、脳研究者からはあまり注目されてこなかったのですが、1980年代後半になって、NGFと近縁の遺伝子産物が次々見つかり、特に脳由来神経栄養因子(BDNF)が脳内に多量に存在することが明らかとなりました。1990年代になってこのBDNFが脳内神経回路網の形成や発達、さらにはその生存に重要であることが判明しました。さらに、1990年代後半には新参の私どもも加わってBDNFはシナプスの可塑性にも関与し記憶や学習にも重要であることが多くの研究室から報告されました。そのような多彩な作用のメカニズムについては、NGFとの類推から, シナプス後部から放出されシナプス前部に取り込まれて作用を発揮するのではないかと信じられてきました。ただ、脳内の一部にはBDNF messenger RNAが全くないのにBDNF蛋白質は検出できる部位(例えば線条体)が存在することが数年前より報告され、他の部位から順向性に輸送されることが想定されてきました。しかし、これらのデータはin situ hybridizationやimmunocytochemistryなどの方法を使った間接的なもので、実際に移動に関する証拠はほとんどなかったといっても過言ではありませんでした。

 2.実験の概要。
 BDNFの動きを目で見えるようにするため、BDNFとGFPの連結遺伝子を挿入したプラスミッドcDNAを微小ガラス管からラット大脳皮質の培養神経細胞の核内に直接注入しました(このプラスミッドcDNAは畠中寛研究室から最近経済産業省産業技術総合研究所に移られた小島正己氏からの供与)。この方法は、私どもが最初ではありませんが、大脳皮質の神経細胞のような小さい細胞では不可能だと思われてきました。しかし、私どものような微小ガラス電極を永年扱ってきた電気生理屋には可能のようにも思え、実際にやってみるとかなりの確率で成功することがわかりました。その結果、注入後1日から2日でGFPで標識されたBDNFが神経細胞内に発現することがわかりました。さらに、驚いたことに、このBDNFが軸索突起内を動く様子を観察することができました。その動く方向は多くの場合、順向性で、そのままシナプス後部のニューロンに移行することが疑われました。そこで、この細胞間の移動を確認するため、赤色蛍光蛋白質(DsRed)を発現する遺伝子を同時に核内に注入したところDsRed で赤く染まったシナプス前終末で囲まれたシナプス後のニューロンに緑色のBDNFが移行していることが認められました。さらに、この細胞間移動は神経細胞の活動をtetrodotoxinで抑えると無くなり、picrotoxinで刺激すると増加することから神経細胞の電気活動に依存することも明らかとなり、BDNFは神経細胞の電気活動とともにシナプス後の神経細胞に移ることが示されました。

 3.当研究の意義。
 当研究の意義は新しい方法が持つ意義と得られた知見の意義に分けられると考えています。
1)蛍光蛋白質標識遺伝子の核内直接注入法。
GFPなどの蛍光蛋白質で標識した遺伝子を神経細胞に発現させ、特定の蛋白質を可視化しようとする試みは、ご存知のように、かなり以前から多くに研究室でなされています。私どもも、他の研究室に教えを請いながらウィルスベクターなどを使う方法を試みてきました。ただ、従来の方法は多数の細胞のどれに目的とする遺伝子産物が発現するか前もって特定できないという問題点がありました。特に、特定の機能や形態を持つ細胞をねらってそれだけに発現させることは困難なように思えました。それに対して、本方法は形態や機能のある程度明らかな特定の細胞に蛍光標識した遺伝子産物を選択的に発現させることができるという点に特色があります。また、複数の遺伝子を同時に注入することも比較的容易にできます(他の方法でも可能ですが)。したがって、本方法は、今後、BDNFのみならず他の機能蛋白質の神経細胞における動態を明らかにするための重要な方法になり得ると思われます。
2)シナプス後細胞への活動依存的移行。 
発生・発達神経科学では、従来、神経栄養因子はシナプス後細胞より放出され、活動的なシナプスは強化され、不活発なシナプスが淘汰されるというシナプス競合に関与していると考えられてきました。このようなシナプス競合説は神経科学における有力な仮説として広く信じられ、それをもとに如何に神経回路が自己組織的に形成されるかの数理モデルも提唱されています。本研究により、BDNFが従来考えられていた方向とは逆にシナプス後部へ移行すること、及びその移行は神経活動に依存していることが明らかとなり、シナプス競合仮説とそれに基づくモデルの再考が必要となったと思われます 。

 4.一見不可能と思われる方法への挑戦の薦め
 前述しましたように、本論文は2つの点で今後の脳研究にとって意味があるのではないかと思っています。特に、微小ガラス管からcDNAをねらった神経細胞の核内に直接注入する方法は、特定の蛋白質の機能を知るうえで非常に有効な方法だと思われます。この方法は非神経細胞や自律神経系の細胞ではすでに適用されていて私どもが最初に開発したというものではありませんが、大脳皮質の神経細胞のような小さい細胞にはその適用は不可能だと思われてきました。しかし、実際にやってみると、できることがわかりました。科学研究のブレイクスルーは、多くの場合、新しい方法の開発によってもたらされることは歴史の教えるところですが、特に若い研究者の方に、不可能な方法はないとの信念のもとに困難な課題に挑戦されることを是非薦めたいと思います 。