解剖実習を終えて(令和元年度)

医学群 医学類 2年

 

伊藤嘉郎


 6週間の解剖習を終えて、大だった習が終わって正直ほっとしている。それと同時に、これほどぶことの濃い6週間はあったのだろうかと思い返している。というのも、医学的な勉としても、とてもぶことの多いものであっただけでなく、際にお身体を提供して下さった方のお顔を見たり、心情を考えたりすることで、道的な面でもぶことがあったと思っている。それぞれについて具的に書いてみたいと思う。

 まず、医学的なびとしての解剖習について。習を通して常に感じていたことは、想像を超える人の複さである。骨だけでも200個、筋肉だけでも650個ほどあり、さらにその間を血管や神が通っている。普段何なく生きている私達も、このような複な機構によって支えられているのだと思い、人の神秘を感じることが出た。それと同時に、病というのはこのうちの1つでも正常でなくなると起こるものであるから、いつ起きてもおかしくない人間には切っても切れないものだという感想を持った。そして、それぞれが複連を持って動いていることが多いという感想も同時に持った。例えば、顔面神は表情筋、アブミ骨筋、腺、唾液腺、舌の味という全く別のものをそれぞれ支配する。このことから、ひとつのものが上手くかなくなると色な他の器官にも影響が出るばかりか、ひとつの病を治すために何か施したらほかの器官にも影響が出るということを感し、そうした連は師になるにあたって正確にえておかなくてはならないと身が引き締まる思いになった。また、解剖習は、今までに習ってきた基礎医学の知識を増強する果もあったように思う。今までに習ってきたことは、言葉やイメージとして捉えたり暗記したりしていても、物として想像出なかったためあまり感として感じられなかったが、解剖習で自分の目で見たことによって感として捉えられ、知識が定着したように思える。そして、破格の存在にも驚いた。我の班では、腸腰動脈が腸骨動脈から出ていたり、脾脈が上腸間膜脈から直接出ていたりと、珍しい破格があった。このように、人によって科書通り行かない部分があるので、手術の際などはをつけなければいけないというびもできた。

 次に、道徳的な学びとしての解剖実習について。1日目、ご遺体の布をめくり、お顔を見た時、色々と考えることがあった。どのような気持ちでお身体を提供して下さったのだろう、ご族遺はどう思ったのだろう、といったことだ。そういった気持ちはご本人しか分からないことであるが、本来ならば生きた時のままのお姿でお葬式が出来たものを、我々医学生のためにお身体を提供してくださったことに感謝の気持ちで一杯です。こんな機会をいただいたのだからしっかり勉強して良い医者にならないと申し訳ないと改めて身が引き締まる思いになった。また、何気なく解剖実習後にしらぎく会の冊子を見た時に、我々が解剖したと思われる方の写真を見つけた。その時、この方はどういう性格でどんな人生を送ってきたのだろうという思いを巡らせた。この方は一人の人間なのだということは頭ではわかっていたが、実感を強く得たのはこの時が初めてであった。それと同時に、病気を診るのではなく、人を診なければならないという意味がわかったような気がした。

 このように多くのことを学んだ解剖実習であった。この学んだことの1つひとつを忘れずに、これからも勉学に励んでいこうと思う。

 

大賀浩銘


 ご遺体と初めてお顔を合わせたとき、解剖実習がいよいよ始まるという不安や緊張、興奮、高揚感といった様々な感覚を覚えたが、何よりも鮮明に覚えているのは、これから解剖実習を通して様々なことを学び、医師になるための大きな一歩を踏み出せるという嬉しさと、自分が医学生であるという実感であった。大学入学以来、実のところ私はその実感を得たことがなかったが、ご遺体とお顔を合わせたときに初めて得られた。今までの教養科目や基礎医学の講義では、自分が医学生であるという事実を意識させられたことは正直に述べると無く、自分自身医学生であるということがしっくりとこなかった。しかし、解剖実習室に足を踏み入れ、ご遺体のお顔を拝見した瞬間に私は医学生で、将来医師になるのだということが、すっと自然に受け入れられてしまったのである。私は解剖実習が2年生の春学期にあって良かったと終えた今では考えている。始まる前までは、6週間に詰め込まれて春学期にやるくらいなら秋学期や3年生で行うのがいいのではないかと考えていたが、今ではむしろもっと早くても良いとさえ考えている。なぜなら、自身が医学生であるという自覚は勉強に対するモチベーションを高め、模範的な医学生らしく行動できるようになるからである。これまでの大学生活では、勉強面で少し怠けてしまったが、この後の学生生活でまだ大いに挽回できると考えているので、2年生の春学期という比較的早い段階で、喝を入れてくれたことに感謝し、この後の臨床分野は頑張りたいと思う。

今回の実習で、医師という職業の重さの片鱗にも触れた。私は身内で亡くなった人はいるが、ご遺体に文字通り触れたことは無かった。初めてご遺体に触れたときのあの冷たさは一生忘れられないと思う。また、触ったときに「死」というものも強く感じた。医師が戦っていかなければならないもので、我々にこの先一生付きまとってくるものである。そう考えたときに医師は人の生死を左右し、命を扱う職業であることを強く実感した。

また医師という職業は目指すことそれ自体にすら覚悟が必要であるということが、解剖実習を通して身に染みてわかった。これから医師国家試験を受け、「医師」を名乗るまでのおよそ4年半、死に物狂いで勉強に励み、あらゆる知識を吸収しなければならない。そうでなければ、ご献体いただいた方々、ご遺族の方々に対して、将来、我々医学生の為にお身体を提供してもよいと自ら進んで志願してくださっている方々に失礼である。学生は勉強も大事だが、遊んだり、サークルや部活に勤しんだりすることも大事だと云う人もいる。しかし、それはあくまで医学生ではない一般の学部の学生の話である。我々医学生は多くの人々の大きな支えによって、こうして学ぶことが出来るという事実を真摯に受け止め、日々学び続けなければならない。

最後に、我々にお身体を提供してくださった方と、そのご遺族の方に多大なる感謝の念を示したいと思う。本当にありがとうございました。

 

 

小川直輝

 

 解剖実習が始まる前日、自分は不安だという気持ちを抱えていた。今まで生きてきて人の死に直面したことはなかったし、ましてやご遺体を触った経験などはなかった。いろんな初体験がある中で自分は6週間実習をこなすことはできるのかと不安に感じていた。しかし、一方でついに解剖実習が始まるという一種のわくわくを感じていた。解剖実習といえば医学生の6年間において最も大きな試練の一つであると同時に、膨大な知識を手に入れることができ、大きく成長ができる機会である。6週間後、自分が医学生としてどれくらい成長できているのか少し楽しみであった。

 解剖実習が始まると生活は多忙を極めた。毎日遅くまで予習復習し、学校ではかなりの量の実習を進めた。2週目あたりから疲れとそれに伴うストレスが増えていき、きつい日々が続いた。しかし知識が確かに増えていっているという実感があり、少し心地よくもあった。実習の終盤に差し掛かると次第に慣れていったのか、手際よく実習を進めていけるようになった。ところがそれと同時に1日の情報量も多くなり予習復習は大変であった。それらをすべて乗り越え解剖実習を終えた日、6週間に及ぶ長い実習がやっと終わったという安堵と開放感に包まれていた。

 自分が解剖実習で大切だと思ったことが2つある。ひとつは実際に見て触れて学ぶことの重要性についてである。予習の時に手引きとアトラスを使って学んだ時はよくわからなかったものでも実際に解剖してみるとすぐに理解できたということが多くあった。百聞は一見に如かずとはよく言ったもので、本で学ぶだけでなく実際に五感を使って学ぶことが重要であるし、効率的でもあるということがわかった。もうひとつは班員とのコミュニケーションの重要性である。今回、自分の班は4人班で実習を行った。上半身と下半身を交互に解剖することになるが、片方の部分の解剖に夢中になっているとほかの班員が解剖しているもう片方についてはよくわからない。解剖を進めていく中で前日どこまで進んだのかわかっておかないといけないし、班員それぞれがすべての部位について理解していなければ試問、筆記試験をパスできない。そのため、手引きのどこまで進めたのかということを実習のはじめに共有しておく必要があり、そこで得た知識についても共有しなければならない。これは医療現場でも似たようなことが言える。1人の患者に多くの人が携わるため、患者の情報をチーム内で共有しておく必要があるのである。

 最後に、今回自分は解剖実習でとても多くのことを学んだ。つらかったが多くのことを学べたことはうれしかった。このような機会を得られたのは亡くなった後に、自分達医学生のためにお身体を提供くださった方々のおかげである。ご献体された方々は、自分にとって多くのことを教えてくれた先生といえるだろう。このことを肝に銘じ、感謝の気持ちを忘れずに今後医学を学ぶ上で今回学んだ解剖の知識を生かせるようにしたいと思う。

 

 

北出実鈴

 

解剖実習では人体の構造や仕組みを学ぶことができただけではなく、将来医師になる医学生として考えさせられることがたくさんあった。実習を始める前は先生や先輩から体力的にも精神的にも辛いと何度も聞かされてきた解剖実習を自分が乗り切ることができるかという不安とともに今まで私たちと同じ世界で同じように生きていた体にメスを入れなければならないということに対する不安で一杯で他のことは考える余裕がなかった。

 実習の回数を重ねていくと不安な気持ちはだんだんと消えていき、特に実習の始めと終わりに行う黙祷でご献体された方やそのご遺族に思いをはせるようになってきた。ご献体くださった方の医療の未来に役立ちたいという遺志があるとはいえ、ご遺族やその方を産み育てた家族の方々の気持ちを想像すると、どうしても自分が解剖を行うことで亡くなった後のきれいな状態で供養してあげられないこととなり、申し訳ないという気持ちがあふれ出してきてしまうのだった。しかし自分にできる最善の選択は実習を放棄することではなく、ご献体くださった方から最大限の知識を吸収することだと言い聞かせて実習を続けた。

 また、先生が実習で毎回行う黙祷でご献体くださった方と対話するようにしているというのを聞いてから私も同じようにすることにした。毎回、解剖させていただくことへの感謝の気持ちと今日もたくさん学ぼうという決意を伝えるようにしていたが、それでも足りないと感じた。大切なお身体を解剖させていただいたという恩はご献体くださった方に直接返すことはできない。それでも自分が医師になり一人でも多くの患者さんを救い医療の発展に貢献することによって、この方の願いは果たされるのではないか。そう思いこの実習で一つでも多くのことを学び、恩返しをするためにも医療に奉仕したいという気持ちがますます強くなった。

 実際に解剖して身体の中を観察するとその方が生きた証と言える痕跡が数多く見られた。私の班のご遺体は多発性癌により亡くなったと聞いていたが、実際に主に腹部で癌とみられる構造があり、血管もそれに適応する形で側副路が発達した様子なども見られた。座学だけで人体の仕組みを学んでいると人の身体は全て同じように働いていると思い込んでしまいがちである。実習ではこのようにただの模型ではなく、ひとりの人間の構造を、また他の班のご遺体と比較して観察することで人間がどのように生命を維持し活動しているのかを学ぶことができた。人体の仕組みには基本構造があるものの、1人ひとりが少しずつ異なっているということを、身をもって体験できたことで今後の学習もより円滑になるだろうし、将来医師として患者さんの治療にあたる際も的確な判断を導くことに役立つだろう。

 実習最終日、ご遺体を納棺した。用意された棺の中に遺品が入っている班もあった。この人はどんな人生を歩んできてどんな声をしていたのだろう、どんな考え方の人だったのだろうと改めて思いをはせずにはいられなかった。涙を堪えることができない同級生も大勢いた。ひとりの人間が亡くなってしまったのだという実感がこの場で再び湧いてきたことによる悲しみもあった。しかし、たくさんあった感情の中で一番大きかったのはやはり大切なお身体を私たちのためにご提供してくださったことへの感謝だった。自分や自分の家族の人生が終わったとき、献体できるかと問われると正直なところ今はまだそこまでの覚悟ができない。献体するということはとてつもなく大きな決断だ。その決断をした白菊会の方々とそのご遺族に対して心から尊敬したい。そして、ご献体くださった方に感謝の気持ちを忘れることなく今後も生きていこうと思う。また、その方々の期待に応えられるような医師になり社会に貢献するために日々の勉学に精進したい。

 

 

佐野友宥

 

解剖実習は長くて大変である。これは医学生の中でよく言われることである。私も、実習が始まる前はそのように考えていた。しかし実習を終えてみると、全く長いと感じなかった。体感ではむしろあっという間、そんな感覚である。それだけ、人間の体の中の構造の情報量は膨大だった。

ではどれくらい膨大だろうか。ある時、近況報告として人体の解剖を行ったことを周りの人に言うと、とても驚かれた(多くの人は解剖するものとしてカエルや他の動物を想像しているらしい)。そしてある時、ご遺体を模型のようなもので代用できないのかと聞かれたことがあった。確かに、そうすることができれば、いろいろと楽かもしれない。しかしそもそも、人体のすべての構造を忠実に再現した模型を作ることなどできるのだろうか。私はその質問にすぐさま、「無理だと思います」と答えた。なぜなら、その質問をされた時に、剖出に苦労した体内の緻密な血管や神経の構造が、頭に思い浮かんできたからである。あのような緻密かつ繊細な構造を人間の手で作ることなどできない、そう思ったのだ。

しかし、無理だと答えた理由はその一つだけではない。もう一つの理由は、破格の存在である。人体の構造に正解は存在しない。一人ひとり異なる構造を持っている。私の班が解剖したご遺体にも破格が存在したが、その存在を無視して模型として画一化してしまうことは危険であるどころか、破格の発見がむしろ解剖学の発展に重要である。また破格だけでなく、臓器など体の全体的な状態も、死因や病歴によって一人ひとり異なっていて、それぞれ体がそれぞれの人生を物語っているように感じる感覚は、模型では到底得ることはできないだろう。

これらのことを、私は無意識に熱をもって答えていたことを覚えている。それは実習を終えて、ご献体された方を模型と同列に考えられないほど、大切に考えていたのかもしれない。実際、自らのお身体を私たちの解剖実習に提供して頂いた方々には頭が上がらない。その方々のおかげで私たちは貴重な実習を行うことができたのである。毎回の黙祷の時間で、私はご献体された方と対話することができただろうか。毎回感謝の言葉を心の中で投げかけていたが、当然応答はない。それだけに生きている間にお話を聞きたかったと思った。そしてその時、自分は生きている存在であるということを実感させられた。この経験から生きている人間として今自分にできることは、医学を学んで医学の発展に寄与することである、そう考えると身が引き締まる思いである。

ただ、解剖実習はまだまだ終わらない。脳の解剖がまだ控えているだけでなく、そもそも今回の実習でも完璧に把握しきれていない部分もある。医学は発展をやめない限り、常に勉強しなければいけない学問であると考えているが、解剖はその医学の根底に位置する。当然解剖の知識は頭に完全に入れて置かなければならない。

このような思いと高いモチベーションを抱いたのは、正直なところ、医学の勉強を始めた時以来である。これまで基礎医学として学んだばらばらになっていた知識が、解剖学の勉強を通して初めて統合されていく感覚を覚えた。そして、解剖実習が2年生というこの時期に行われる意義を理解することができた。これから臨床医学の勉強に入ると思うが、この思いを忘れずに、勉学に励みたいと思う。そして改めて、ご献体された方々に感謝し、ご冥福をお祈りいたします。


杉本理紗

 

 先日、長いようで短かった解剖実習を終えた。今思い返すと一瞬のように過ぎていった6週間であったが、同時に学ぶ内容がとても濃密な6週間でもあった。解剖実習というのは医学部では皆が通る道であり、始まる前から緊張の気持ちがあった。実習初日、白衣を身につけ遂に始まる、と思いながら実習室の中に入った。ご遺体を前にしてどのような感情が思い浮かぶかは想像もできなかったが、最初の黙祷を終え初めてメスを入れた時は、より一層緊張感を感じ、身が引き締まった。特に慣れない最初の頃は、毎日の長い実習に加えて帰宅してからの膨大な量の予習・復習は正直とても大変だった。自分にやりきれるのか、と思う日もあったが毎回ご献体してくださった方のお顔が浮かび、毎晩努力を続ける動機になった。このような大変な毎日ではあったが、周りには同じ経験をしている同期がいて、同じ班でなくてもわからないことがあれば助け合い、お互いの相談に乗って、皆で乗り越えようとする精神はとても心強かった。

 解剖実習が始まり、神経が筋肉を支配しているところや細い神経が体の中を迷路のように存在すること、血管の太さ、などに感動した。今まで他の基礎医学のコースで神経の仕組みや働きについて学んでいたが、実際のものを見ると、この構造によっていま人間が複雑な動きをして、色々な感覚を持つということを実感し、人体の構造の深さにさらに魅了された。

 また、解剖実習が進むにつれ最も驚いたのは、人体の構造は1通りではない、ということである。このことは解剖実習が始まる前から知っていたし、このような違いから先天性の疾患などが起こることをも知っていた。だが、実際に教科書には1本と書いてある血管が2本見つかり、臓器の主流な栄養動脈として覚えた動脈がないにも関わらず他の動脈が補っているのがわかり、人生は無限の通りの歩み方がある。それによって、人体の発達の仕方も異なるからこそ色々な特徴のある教科書通りにはならない私たちが存在する、ということを実感することができた。

 このような新しい発見が毎日あり、興味を掻き立てられる実習も毎日の課題をこなすうちにあっという間に終わってしまった。実習の最後の日に毎日私たちの指導をしてくださった教員がこのようなことをおっしゃっていた。「あなたたちはこの解剖実習を通して初めて人を診たのだ」生前お会いすることはできなかったが、色々な人生を歩みご献体してくださった方が私の最初の患者さんである、ということを実感し、感謝と感動を感じた。同時に申し訳なさも感じた。最後の解剖実習が終わり少し落ち着いてから思うと、精一杯予習、復習を行い、実習にも励み、やりきった気持ちもある。だが、一生で最後の解剖になるかもしれない、と思うとやり残したことがあるのではないかと不安になってしまった。これから私は、この申し訳なさを全く感じなくなるくらい、最初の患者さんが天国から誇らしい気分になってもらえるような立派な医師になれるように精一杯頑張りたいと思った。

 また、この6週間を毎日朝から晩まで学生の指導にあたってくださった教員の皆様に感謝をしたい。私たちの教科書上でしかわからなかった知識に対してご献体してくださった方の色々な特徴に結びつかせていただき、ときには励ましの言葉をかけていただき、この実習を無事に終えるようサポートしてくださり、本当にありがとうございました。先生方の指導があってこそ医学という学問の深みを感じることができたのではないかと思う。

 最後に、ご献体してくださった方に感謝の気持ちを述べたい。最後の黙祷をしている時、私はご献体してくださった方と会話をしながらどのような人生を歩んだ方なのかな、と考えた。多分、とても心優しい方であったに違いない。一生私の頭に残る人体の地図をくださり、人体には色々な特徴がある、ということも教えてくださったご献体してくださった方には毎日の黙祷だけでは感謝の気持ちを言い切れなかった。私の最大の先生であり、お身体を最初に診せてくださった先生にお礼を言いたい。ありがとうございました。

 

 

田原 沙絵子

  

 基礎医学の集大成である解剖実習を終えた今、本当の意味で医学生としての自覚と責任が生まれたのではないかと感じる。この実習では、人間の構造の理解のための解剖実習というだけではなく、医師に求められる倫理観や責任感および役割も学んだ実習であった。

最後の日に、先生がおっしゃった話の中でこのような言葉があった。「患者さんの病気ではなく、患者さん自身を診なさい。ということを言いますが、君たちはこの解剖実習を終えた今その意味を初めて理解できるのではないでしょうか?」患者さん一人ひとりにはそれぞれの人生・ストーリーがあり、それぞれの思いがある。だからその方々の思いをくみ取る必要があるということを言葉の上では理解していたつもりであったが、あくまでも言葉の上での理解だった。ご遺体には教科書の記載とは違った破格があり、さらに筋肉の厚みや臓器の様子など様々なところからその人の生きてきたストーリーが伝わってくる。患者さん自身でさえも言葉では表現できないような自身の人生を、全身を介して語ってきているような感覚であり、驚きを隠せなかった。具体的に述べれば、私たちの班のご遺体では、癌による影響からか脂肪が落ち、やせ細った外見をしていながらも筋肉・臓器が他班よりも大きく大柄な人であり、何かスポーツをしていたということが想像された。また、一見すると臓器の大部分は正常を保っており、その方の体内で何が起こり、死に至らしめたのかわからなかった。しかし、解剖を進めていくうちに、前立腺癌の転移が左鎖骨下のウルヒウのリンパ節にまで転移していたという病気の進行過程を掴むことができ、終末期には全身が癌によって侵されて苦しい思いをしていたのではないかということが想像された。一方、他の班のご遺体では膵臓癌が横隔膜の裏を含めた広範囲に転移していたり、胆管癌によって胆管周辺の組織が固くなっていたりして、一目でわかるほど体内の様子が違っていた。それらを自分の目で直接見て理解した時に、やっと医師になるためのスタート地点に立てたような気がした。患者さんを“診る”ということは、患者さんの全身で何が起きているのか、その真実を見定められることであると思う。その役割は、人体の構造や組織に誰よりも通じ、病気に対する適切な治療を十分に学んだ医師が先頭に立って努めていくものであると思う。患者を“診る”目を持った医師になるためにはそれ相応の知識が必要であり、さらに新しい知識も取り入れ続けなければならない。今までの基礎医学の重要性とこれから始まる臨床的な学びの重要性をこれまでになく感じた。

この解剖実習はご献体してくださった方を始めとして、白菊会の方々、一月間ご指導くださった先生方や班員の協力があって成り立っていた。特にこの解剖実習のためにお身体を提供してくださった方に感謝を申し上げたい。そういった方々がいるおかげで、自分が本当に貴重な経験と学びをさせていただけていることを今後とも忘れないようにしていきたい。また、実際に手を動かして実習を進めていく上で班員の協力は必須であった。班員によって解剖している部分が違うため、その日の進行状況を毎日確認していかなければ引継ぎが上手くいかず時間を無駄に使ってしまう。予習復習が必須な上、毎日続く実習で班員の多くに疲れが見え始めるとそういった連携が億劫になり上手くいかなくなるが、その様子に配慮しながら進行が遅れないように進めていくことはこれから臨床の現場に出ても重要であると感じた。これからも、自己研鑽に励み、仲間を大切にしながら医療行為を行える医師になれるような姿勢で臨んでいきたいと思う。

 

 

根岸駿太朗

 

 医学生としての学びにおいて特に重大なイベントとも言える、解剖実習を終えた。話に聞いていた通り、一生忘れることのないであろう、濃く、新鮮な6週間であった。実習の初回で白衣に着替え、実習室に入った時点で、これまでの実習とは全く違う空気を感じ、緊張に震えながら先生のお話に耳を傾けた。目の前のご遺体とどう向きあって実習に臨んでいくのか、という予想も覚悟も定まらないまま、解剖実習が始まったのだった。

 テクノロジーが発達したこの時代にも、亡くなった方のご遺体を解剖させていただき、学びとするということが行われているのは、一見不思議に思えたことがあった。講義でも実習でも、大学における教育というのは特に、合理性と効率を重視して改革が行われてきたように、私は入学以来感じていた。それは、講義においてデジタルな板書を用いるといった表面的なことであったり、カリキュラムでさえ、医学を学び医師になるために必要な知識をいかに体系化し伝授するか、ということが常に考えられていたりする点だ。その点において解剖実習は、過去の積み重ねを特に重視して学習に役立てられてきたように思える。それゆえに、先人たちの発見を実習書で学び、ご遺体を実際に手で感じとりながら学習を進ことができたのだった。この先どのような改革が起きようとも、医師という職業が、またそれを目指す医学生が生まれ続ける限り、ご遺体での解剖実習が行われなくなることは絶対にないのだと、そう思えた。

 世の中にこんなにも、「自身の身体をもって教える」という行為は他にないのではないだろうか、と何度も考えた。たったひとつ与えられた身体で各々の人生を全うされた方々が、見ず知らずの我々のためにお身体そのものを提供してくださる、というその事実。かつて命がやどり、何十年も一人の人として生き続けていたお身体を、隅々まで、何もかも観察し尽くすことを自ら望み許可してくださった勇気とご厚意に感謝せずにはいられない。自分の身体を提供するということに抵抗を持つ人は少なくないだろう。それは、一人ひとりに一つずつ与えられた身体というものに、各々が運命であったり、生んでくれた親への感謝だったり、その人生を通してどこか愛着を持つがゆえで、それは決して責められるべきことではない。特に現代では、人体は持ち主だけのものであって他人の所有物でないという考え方が広まっているためか、客観的にもこの考え方は受け入れられるように思える。形のあるもので、生まれてから死ぬまで不変なものは自分の身体だけ。そんな自分の身体を、たとえ死後であっても手放したくないと思うのは何も不自然なことではない。そんな中にあって献体への登録をしてくださるすべての方に、感謝と尊敬の念で一杯である。亡くなった方に直接お礼をすることはかなわないうえ、まだ未熟である我々が自分の手だけでご遺体から学べることには限りがあったが、それでも感謝の念だけは最後まで一貫して持ち続けること、それが、いま我々に為せる唯一の礼儀であると確信した。気づけば、実習の終盤では、「この方とお話をしてみたかった」などと自然と思うようになっていた。勝手な感情移入は避けられるべきかもしれないが、このことが、自分がきちんと、誠意を持ってご遺体と向き合えていたことの現れであるならば、それはいいことであると思う。

 今後、私達が人生をかけて挑まねばならない「人体」というものがいかに深いものであるかを垣間見ることができた6週間であった。今後臨床医学を学ぶにあたっても、この実習のどこかのシーンが思い浮かんで、より実のある学習につながるのだろう。まだ長い道のりではあるが、やがて医師となり世に尽くすという大きな目標のために、これからも研鑽を積み重ねて行かねばならない。そうすることで初めて、形ある恩返しが果たせるのだろう。

 

 

松吉康志

 

解剖実習が始まる際、私は今までに体験したことのない緊張感や不安があった。今までの学生生活では教科書や図譜などでの学習がメインであり、実際の人の身体と対峙する授業がなかったためであろう。ご献体された方と初めて対面した時の気圧されるような感覚は今でも鮮明に覚えている。この6週間の解剖実習をさせていただき、医学生として大きく成長できたのではないかと思う。

実習が始まった当初は、ご献体された方にメスを入れさせていただくことに対して「申し訳ない」という思いや戸惑いがあった。しかし、数日後には「医学生として必要なことを学ばせていただくために、生前お会いすることもなかった我々医学生にご協力いただいているのだ。ご献体された方々やご遺族の方々のご厚意に応えられるように頑張ろう」と思えるようになった。その思いを強く胸に刻み、予習・復習にも今までの科目以上に毎日注力することができた。

6週間という長い間、解剖実習で人体の構造をご献体された方々のお身体で実際に見させていただき、「ここはこのようになっているのか」や「ここはあそこと繋がっているのか」というようなことをご献体された方々から教えていただいた。今まで教科書で人体の構造について学習し、理解しているつもりではあった。それでも「百聞は一見に如かず」という諺があるように、実際に自分の目で見ることで初めてわかることが日々いくつもあった。実習を通して、自分の頭の中に地図が広がるように、人体の構造に対する理解をより深めることができたと実感した。

医師として働いている方々に「医学部の勉強の中で重要な授業は何か」というお話をうかがうと、皆さん口をそろえておっしゃるのが「一番大切なのは解剖学である。人体の構造や機能を十分に理解していないと医師としては働けない」ということである。そのくらい貴重な学びを体験する機会を与えていただくことができたことを幸甚に思う。解剖実習に実際に携わることができるのは医学生だけである。解剖実習を経験したことで、「自分は医学生なのだ。医師として地域に貢献するのだ」という思いを改めて強く感じることができた。この実習で学んだことを今後の学習に活かしていきたいと強く思う。

最期に、ご献体された皆様やご遺族の皆様、この度は我々筑波大学の医学生のために非常に貴重な体験をさせていただき、本当にありがとうございました。皆様のご協力がなければ解剖実習はできませんでした。この解剖実習では、今後医師として働いていく上で必要となる多くのことをご献体された方々から教わることができました。皆様の思いを胸に刻み、ご厚意に報いることができるよう今後も勉学に全力を傾注し、よい医師となって社会に貢献できるよう精進して参ります。

 

 

本橋 悠

 

 私は解剖実習において、以下のようなことを学んだ。

 まず、献体という非常に重要な仕組みについてである。私は解剖実習を始める前、実習に必要なご遺体はどのようにして用意されるのであろうかと漠然と考えているのみであった。しかし、解剖学のカリキュラムの中で献体について知ると共に、実際にご遺体を提供してくださった方を目の前にして、自然と真剣に取り組む気持ちが強まった。ご遺体を解剖していくと複数の病巣が見つかり、当たり前であるが目の前のご遺体も元は病気にかかる普通の方であったことを改めて自覚し、感謝の念も湧いてきた。このように自分の解剖実習への取り組み方をより強く形作ってくださったという意味においても、現在改めてご献体いただいた方に対して感謝の気持ちを述べたいところである。

 次に、木も見て森も見るということである。例えば、個々の神経の名前や働きを言葉で暗記することはもちろん重要であるが、その神経の立体的な位置を分かっていないと取り返しのつかない医療ミスを引き起こしかねない。これは机に向かって教科書を眺めているだけではなかなか身に付かず、実際に自分の手で解剖を行うことが重要である。私は逆に、解剖実習の中で自分が漠然と考えていた臓器の位置が全く違うなどといったことを通して、木も森も両方見なければならないということを痛感した。

 最後に、病ではなく人を診るということである。教科書や講義で勉強していると機械的に病気のみに視点が行ってしまいがちであるが、実際のご遺体を使わせていただく解剖実習においてはその人がどのような方であったのか、どのような人生を歩んで来られたのかなどといったことを度々考えさせられた。解剖実習の場においては使い古された言葉ではあるかもしれないが、ご遺体は話さないが多くのことを語るというのは本当であるとつくづく感じた。話は変わるが、実習最終日に先生が「夏休みに心の中でご遺体と対話を試みてください」と言っていた。その時点でも既にご遺体を思い出しながら構造的なことから背景的なことまで思いを巡らせたり疑問を持ちかけたりできそうな気がしていたが、解剖のカリキュラムの直後に医師のプロフェッショナリズムや家庭医療について学んだというだけで、ご遺体の目に見える情報の裏にある本人やご家族の感情や事情を重要視しながら様々なことを訊いてみたいと思えるようになった。今後、臨床医学を学び知識を蓄えていく中で、病気の物的情報だけでなく病気にかかった人のことを考えるために解剖実習で得た経験を思い出すことであろう。別の先生の言葉を借りれば今回解剖させていただいたご遺体はある意味私の患者さん第1号であり、私が病ではなく人を診ることを目指す大きなきっかけになったということは間違いない。解剖の知識に留まらない様々な情報を提供してくださった方には本当にありがたい気持ちで一杯である。

 以上が、私が解剖実習において学んだことである。このような大きな学びを与えてくださったご献体いただいた方には、改めて感謝の意を表したい次第である。この先解剖実習という大きな経験を忘れることなく、様々な視点で人を診られるような医師になりたい。