ベンチが先か、ベッドが先か?

 

筑波大学大学院人間総合科学研究科

基礎医学系・免疫制御医学

渋谷 彰

 

 自己寛容とクローン選択の概念を唱え、1960年にノーベル医学生理学賞を受賞したオーストラリアの理論免疫学者であるマクファーラン・バーネット(1899-1975)は、ヒトの体内では毎日3,000個におよぶ癌細胞が生じているが、免疫系が癌の発症を未然に防いでいるとの仮説(癌免疫監視説)を提唱した。しかし、その詳細な分子メカニズムについては現在に至るまで不明であった。そもそも、自己の体内から発生する癌を、非自己を特異的に認識する免疫系が攻撃するということ、すなわち、いわゆる“癌免疫”が存在するのだろうか?

 この素朴で基本的な疑問に対して、癌免疫の存在を実証したのがメチルコラントレンを用いたマウスの繊維肉腫発癌実験である。メチルコラントレンにより誘導した繊維肉腫を切除した後に、切除した腫瘍をその元のマウスに移植すると拒絶されるが、ナイーブマウスでは生着する。しかし拒絶したマウスの脾臓から取り出したCD8+ T細胞を移入したナイーブマウスでは拒絶することから、CD8+ T細胞による腫瘍拒絶(癌免疫)の存在が初めて示されたのである(補足1)。この実験は近年の腫瘍免疫療法開発の理論的根拠となり、CD8+ T細胞が認識する癌抗原の同定と癌ワクチンの開発へとつながっていったことは周知の通りである。

 一方、細胞性免疫の主体であるCD8+ T細胞の他に、SEREX法などの開発により液性免疫をになう癌抗原特異的抗体の存在も知られ、またこれらの獲得免疫の感作に必須である樹状細胞の重要性がクローズアップされてきた。さらに自然免疫系のNK細胞、NKT細胞、マクロファージ、顆粒球、肥満細胞でさえ、種々の局面で癌に対する免疫に働いていることがわかってきた。これらに対して、制御性T細胞やIL-10TGF-bなどをはじめとする免疫抑制、免疫逃避に働く細胞、分子などが存在し、研究すればするほど免疫システムは一筋縄ではいかないことがわかってきたのである。科学的証拠に基づく免疫療法の開発には、このような複雑な免疫システムを理解し、制御しなければならないことから、安易な臨床応用は厳に慎み、まだまだ膨大な研究が必要であろうというのは免疫学を専門とする私の率直な感想であったのである。

 ところで、筆者は血液内科医としてどっぷりと臨床に浸かって12年もたった頃、勤務先の大学に辞表を提出し、DNAX研究所でNK細胞の研究をするために家族を連れて米国へ渡った。今から16年も前のことである。それからはすっかり臨床を忘れ、免疫学の研究だけに没頭した。サイエンスの楽しさと苦しさと、そして喜びを味わいつつ、幾つかの新しい分子もクローニングし、充実していた日々であった。帰国後も含め基礎研究者としてのキャリアが臨床医としてのそれを超えた頃から、改めて自分の研究の原点を問い直した時に、現在の臨床の世界の状況も再勉強してみようと思ったのである。そこで私が目の当たりにしたものは、当時からは様変わりの世界であった。CMLに対する第一選択は今や分子標的療法だという。移植もできずに、また移植をしても、助けられなかった多数のCMLの患者さんの顔が今でも生き生きと脳裏に浮かぶ。あの方達が10年後の時代に生きていたなら、と思う。B細胞系腫瘍やリウマチ等の自己免疫疾患には抗体療法だという。もちろん、治療法の開発ばかりでなく、診断技術の進歩も目覚ましい。十年一昔というが、医療の現場でのこの期間は、意味のある充分な長さであったことが実感させられる。これらはベンチからベッドへの橋渡しの成功例であろう。医学の基礎研究者にとっては勇気づけられることではある。しかし、たとえば抗体療法を一つとっても、必ずしもそのメカニズムの全貌が理解されている訳ではない。これはちょうどエドワード・ジェンナー(1749-1822)による牛痘ワクチンを先駆けとして種々のワクチン療法が開発されたような状況に似ているかもしれない。一方、歴史的事実はジェンナーによる牛痘ワクチンの開発が免疫学の勃興と発展の契機となったことを教えてくれている。我々は、現在もなお、ワクチンがなぜ感染症の予防に効くのかという命題に答えるために、免疫の特異性、多様性、記憶の問題、すなわち免疫システムの全貌の解明に取り組んでいるのである。これはベッドからベンチへの流れである。そしてその先に目指すものは、感染症のみならず、癌の、アレルギーの、また自己免疫病の患者さんの横たわる、またベッドである。おそらく、ベンチとベッドは常に双方向性に流れ、巡回していることが、明日の医療を切り開くために必須のことであると思う。

 

補足1:我々は最近、バーネットによる癌免疫監視説のメカニズムの一端を、歴史的なメチルコラントレンの発がん実験を用いて示すことができた。我々はCD8+ T細胞やNK細胞に発現するDNAM-1(CD226)を同定し、さらにそのリガンドとしてCD155CD112の2つの分子を同定した。最近、DNAM-1遺伝子欠損マウスでは野生型マウスに比較し、メチルコラントレンをはじめとする化学誘発癌が高率に発症してくることを突き止めた。この結果は、DNAM-1が癌免疫監視に働いていることを示している(Iguchi-Manaka, et al., J Exp Med, 205, 2959-2964, 2008)

 

(造血器腫瘍免疫療法研究会ニュースレター、平成21年12月)