寮生活のこと

 

           筑波大学大学院人間総合科学研究科

基礎医学系免疫学

渋谷 彰

 

             私が勤務する筑波大学では組織改編に伴って、最近新しい研究棟がいくつか建設された。私の研究室も竣工なったばかりのピカピカの建物に引っ越したばかりである。広くきれいなことはいいのだが、困ったことは担当する医学系の本部から離れており、会議や授業等のため歩いて10分ほどの距離を、多い日だと2~3回も往復しなければならなくなったことだ。またこの程度だと車ではかえって不便な距離でもある。研究室の大学院生とも一計を案じ、ラボチャリ(研究室用自転車)を数台購入した。これで緑に囲まれたキャンパスを、特に晴れの日などは気持ちも颯爽と往復できるようになった。

             するとこれまでは目にすることのなかった学内の風景が目に入ってきた。それは車道から離れて緑の木立に取り囲まれて立ち並ぶ古ぼけた鉄筋コンクリートだての学生用宿舎である。東京教育大学を母体として30年余り前に設立された筑波大学の当時の状況では、学生の寄宿舎は必須であったようだ。現在、大学周辺には学生用の民間アパートが林立しているが、学生用宿舎には今でも多くの学生が暮らしている。その窓窓からは、住人であるそれぞれの学生の日常の生活が垣間見えてくるのが面白い。授業に出て留守に見える部屋、真っ昼間になってもまだカーテンがかかり熟睡の境地を彷徨っているようにも思われる部屋、友人との語らいで笑い声が漏れ聞こえてくる部屋などさまざまな学生生活模様である。このような中を自転車を走らせると、30年近く前にもなる自分の寮生活の時代にタイムスリップしたりする。

             秋田の田舎の高校を出た私は、昭和50年の春に北海道大学に入学した。なぜに北大を選んだかと問われれば、そこにはロマンがあったからと、この年になって初めて素直に言えるようになった気がする。海で隔てられた北の大地は、郷里から出たことのない少年にとっては異国の地であった。親から離れ自立せんと欲する少年にとって、最適の地であったように思われた。大学のある札幌までは、列車と青函連絡船とまた列車を乗り継ぎ、一昼夜近くかかったのではなかっただろうか。遠い、寒い、海を渡るといった3拍子揃った理想的な土地と言えた。北海道の地とそこにある大学に特別な思いを寄せていたことは、入学のためその地に踏み出す時と、6年後卒業しその地をあとにする時の往復だけは、飛行機で空を飛ぶのではなく、船で海を渡ると堅く心に決め、それを実行したことからも確かであった。                      入学した私は、県が設立運営していた秋田北盟寮に入寮した。そこはとにかく古くて汚かった。すでに時代は過ぎていたものの、所々に赤いペンキで書かれたプラカードやヘルメットなどもまだ転がっていたりした。新入寮生は一階の一番陽当たりの悪い部屋を当てられた。4畳半もあったかどうかの二人部屋に勉強机を置き、押し入れのような造りの所に布団を敷いて寝るという生活であった。進学競争が厳しかった数学科を諦めきれず、何年か留年してまで教養に留まっている先輩がいた。6〜7年も大学にいて寮の主になっているおじさんのような人もいて、風呂場で出くわすと怖かった。深夜ともなると、どこの部屋からか叫び声が発せられ、次第にうねりとなって広まって、ついには寝ている自分の部屋にまで押し寄せ、最後は全寮生が中庭に集まって、一升びんを片手に、肩を組んで踊りながら歌った。このストームのお陰で私は「都ぞ弥生」や「水産放浪歌」の前口上を覚えることができた。「水産放浪歌」などは何者かになりたくて海を渡ってやってきた私のセンチメンタリズムを最もくすぐる歌として、よく歌った。定山渓マラソンというのがあった。深夜2時のスタートで30数キロメートルの距離を全寮生が走った。すっかり日が昇った頃に浸かった温泉で私は溺れそうになった。このようにして私の自立期は寮の中でうまくくぐり抜けさせてもらえたのだと思っている。

             いつに時代でも青春期とは変わらないものだろうと思う。授業や研究室で毎日会う学生を目の前にして、私には彼らがまぶしい。しかし常にその若さの息吹に接していられる生活は楽しく、大変幸せだと思っている。(昭五六医卒)