「海馬体と記憶」



小野武年 (富山医科薬科大学・医学部・第二生理学)


 近年、破壊実験やヒトの臨床病理学的研究から、側頭葉内側部にある大脳辺縁系が認知・記憶機能を含むヒトの様々な高次脳機能に深く関与していることが明かにされつつある。とくに、1957年のScoville と Milner による健忘症患者H.M.の臨床神経心理学的研究に基く側頭葉内側部(海馬体)と記憶機能に関する報告が転機になった。海馬体が障害されると、知能などヒトの基本的な能力は正常であるが、障害前の2〜3年間に起きた出来事の記憶が消失(逆行健忘)し、さらに障害後に起こった新しい出来事はすべて覚えることができなくなる(前行健忘:長期記憶の形成障害)。記憶は、最終的には長期記憶として大脳皮質に貯えられるが、大脳皮質に固定されるまでの間一時的に海馬体内のシナプス神経回路に貯蔵される。海馬体の障害による逆行性健忘は、海馬体に一時的に貯えられていたこれらの情報が消失したからであると考えられる。
 海馬体の損傷では、とくに個人が、いつ、どこで、何に出会ったとか、何かをしたというエピソード記憶が障害される。それでは海馬体で、情報がどのように処理され、エピソード記憶が形成されるのであろうか。 Tulving ら(1973)は、記憶に関する彼らの仮説の中で、情報の符号化、すなわち、情報をエングラム(長期記憶貯蔵庫に貯えられた情報)に転換する過程では、事象そのものだけでなく、検索の手掛かりとなる文脈情報も同時にその事象に関連づけられて符号化されることを提唱している(符号化特定性仮説)。その際、場所や時間は、エピソード記憶においては非常に重要な検索の手掛かりとなる。たとえば、様々なエピソードの記憶には、必ず同時にそのエピソードが起こった状況(場所、時間など)が含まれている。すなわち、エピソード記憶には、もともと空間や場所の記憶が含まれていると考えられる。これらのことから、海馬体は大脳皮質から全ての情報を集め、その情報を用いて状況(あるいは文脈や場所)を認知し、そのときに起きた事象と連合させて記憶する過程に重要な役割を果たしていると考えられる。
 最近、われわれは、このような記憶過程で海馬体ニューロンが実際にどのような応答を示すのか調べるため、サルがレバー押しにより自己の居場所を前後左右方向に変えることができるシステムを考案し、各場所で食物を認知して食べる認知記憶課題に対する海馬体ニューロンの応答性について調べている。その結果、サル海馬体には、それぞれ物体、空間(自己および外界中心的座標)、および場所だけに応答するニューロンや、あるいはそれらの連合に応答するニューロンが存在することが明かになった。海馬体におけるこれらのニューロンの存在は、海馬体に、物体の認知・記憶系(下側頭葉)、および空間や場所(前頭葉や頭頂葉)の認知・記憶系からの情報が収束し、海馬体でのそれらの情報が相互に関係づけられて連合的に統合される可能性を示唆している。
References
1. Ono,T., Nakamura,K., Nishijo,H., and Eifuku,S. Monkey hippocampal neurons related to spatial and
non-spatial functions. (1993) J. Neurophysiol., 70: 1516-1529
2. 小野武年、西条寿夫:海馬体の認知・記憶関連ニューロン。神経研究の進歩 38:126-139、1994
3. 西条寿夫、小野武年:海馬体破壊による実験的記憶障害。 神経研究の進歩 38:112-125、1994 

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