解剖実習を終えて(令和7年度)

医学群 医学類 2

伊藤悠翔


 620日をもっておよそ6週間の解剖実習を無事終えることができた。実習が始まる前、私は実際に「⼈体を解剖する」という実感が湧かず、どこか浮ついた⽇々を過ごしていた。しかし、解剖実習室に⾜を踏み⼊れた瞬間、実習室に漂う異様な緊張感に圧倒され、ご遺体を解剖させていただくという責任を⾝に染みて感じることになった。
 事前のショートレクチャーで解剖実習が多数の無償のご遺体によって成り⽴っていることを学んだ。それは私にとってとても衝撃的なことだった。⾃分、または家族が亡くなってしまった場合、献体を選択できるかと問われれば、躊躇する⼈が多いだろう。にもかかわらず、医学の将来のため、私達医学⽣の勉学のためにご献体いただいた故⼈やそのご遺族のことを思うと⾃然と背筋が伸び、解剖実習に対する姿勢も引き締まった。解剖実習が進むにつれ、⼈体構造の多様性に⾮常に驚かされた。実習が始まる前、先⽣がよくこう仰っていた。「皆さんの先⽣は皆さんの⽬の前にあるご遺体です」この⾔葉に真意は解剖を始めて1,2 週間たったあたりから痛感するようになった。⽪の厚み、脂肪の多さ、臓器の⼤きさや形、そして特に神経の⾛⾏、これらはいずれも個体差があり多様性に富んでいた。例としては、腰神経叢が挙げられる。アトラスや解剖実習の⼿引きで事前学習してきた分枝の仕⽅と、実際に剖出した腰神経叢の⾛⾏では異なる点がいくつかあった。また、体の左右においても左側では教科書に沿った⾛⾏をしているのに、右側では異なる⾛⾏をしていることもあった
 
これらの経験からまず感じたことは、⼈体の構造の神秘についてである。数百個といった⾻や筋⾁、そして無数の神経をある程度の違いはあれど⼈間は皆その構造をもっている。これはとても凄いことではないだろうか。精⼦と卵⼦が出会い、受精してから胎児へと変わっていく段階で、皆同じような構造と機能を獲得していく。まさに⽣命の奇跡である。今後もこの神秘を怠けることなく真摯に向き合い学んでいこうと思った。さらに教科書のみを勉強していても⼀⼈前の医師にはなれないということも学んだ。「皆さんの先⽣は皆さんの⽬の前にあるご遺体です」この⾔葉のように⼈はそれぞれ異なる構造を持つ。それはつまり、臨床においても病状や薬の効き⽅、回復の速度は⼈それぞれであるということだ。私たちが臨床で向き合うのは「病名」ではなく、「その⼈」⾃⾝である。臨床の現場では教科書的な知識を礎として、⽬の前の患者さんを総合的に理解することが必要不可⽋であると痛感した。

 この6週間の解剖実習を経て、⼈体の構造の学問的知識はもちろん、医師となるための基本的な姿勢も学ぶことができた。この経験を糧にしてこれからより⼀層精進していきたいと思う。


佐藤礼優

 解剖実習初日の興奮と緊張は、今でも鮮明に覚えています。医学生として、医師になるために避けては通れない解剖実習に参加できるという喜びがある一方で、故人にメスを入れる行為への畏れも同時に感じていました。解剖実習室に入り、白い布で覆われたご遺体を目にしたときは、緊張で頭が真っ白になりました。しかし、ご遺体と対面した瞬間、提供してくださった故人とそのご家族への深い敬意の念が湧き上がってきたのです。この瞬間に医学生としてこの解剖実習に全力で取り組むと決心しました。
 実習が始まってまず苦戦したのは、剖出作業でした。私たちの班のご遺体は脂肪が多く、皮剥ぎの後の脂肪取りに大変苦労しました。未熟な技量ゆえに、他の構造物を傷つけてしまったり、血管を破ってしまったりすることもありました。実習が進むにつれて技量は身についてきましたが、他の班に比べて進度が遅れる日々が続きました。先生方のショートレクチャーを聞いても、話についていけないことが多く、班員の間で「少し雑でもいいから進度を早めよう」という方針を立ててしまいました。
 そんなとき、この方針を先輩に相談すると、「それはいけない」と厳しく指摘されました。「解剖は速さを競うものではない。ご遺体ごと異なっているのだから、目の前のご遺体をしっかり観察することが何よりも大切だ。それが故人のためにもなる」という言葉を聞いて、私たちは我に返りました。いつの間にか、解剖の本来の目的を見失い、ただ実習を終わらせることばかり考えていたのです。この日を境に、私たちは進度を気にしすぎず、目の前のご遺体から全てを学び取ろうという気持ちで実習に臨むことができるようになりました。
 実習の終盤では、教科書と現実の人体構造の違いに悩まされました。教科書通りではない構造物に出会うたびに、解剖実習の意義を見失いかけ、「教科書だけの勉強で十分ではないか」と考える時期もありました。しかし、そのときに武井先生がおっしゃった「人の体は必ずしも全て同じではない」という言葉が、私の心に深く刻まれています。この言葉を意識して実習に取り組むことで、ご遺体の個体差に対する見方が変わり、その構造の持つ意味についても深く考えるようになりました。そして、たとえ構造が異なっていても、人体の活動に問題がないことから、生命の精緻な構造と多様性を肌で感じることができたのです。
 
 今回の解剖実習は、ご遺体を提供してくださった故人とそのご家族、そしてご指導いただいた先生方や技術職員の方々の協力があってこそ成し遂げられたものです。このかけがえのない機会に心から感謝申し上げます。この実習で得た知識を確固たるものとするため、これからも研鑽を重ねていく決意です。そして、この貴重な学びを将来、後輩たちにも引き継いでいきたいと考えています。


須藤有菜

 
解剖実習を終えてから、今でも最も心に残っている場面、それは、初日のご遺体と初めて対面した場面である。解剖実習が始まる月曜日、今日から解剖が始まるという覚悟を持たなければいけない、という漠然とした責任感を感じながら学校へ向かった。しかし、そんな責任感よりも、大きかったものは恐怖であった。今まで亡くなった方のご遺体を見たのは、小さいころに叔母の葬式でお別れした時のみであった。小さかったのに鮮明に覚えている。たくさん遊んでくれて、優しかった叔母さんは、私の母、祖母にとっても大切な存在であり、死を迎えたことなど信じがたいものだった。どのご遺体もこのように家族から愛し愛され、様々な人生を送ってきた方々なのである。死んでいる「人」と長時間向き合うという今までにない経験に、心から怖いと思ったし、これから6週間もやっていけるのかという思いでいっぱいであった。
 解剖実習室に入ると、そこには布に包まれたご遺体がいくつもの解剖台に乗せられていた。そこにいる医学生、みんなが緊張した面持ちで、暗い空気の中座っていた。先生の説明の後、ご遺体と対面する時が来た。布を外すと、そこには、やはり動いている、生きている人間とは異なっていて、でも生きているときの笑っている顔、動いている姿が見えてくるような、そんな方がいらっしゃった。優しいお顔をされていた。年齢はほとんど私の祖母と同じくらいである。ご遺体と対面して改めて、ご本人、そしてご家族がどのような思いで、お身体を私たちに預けて下さったのかということを想像し、感謝の気持ち、尊敬の気持ちでいっぱいになった。祖母などの家族が亡くなった後、私はこんな風にそれを許すことが出来るのだろうか。想像しただけで心苦しい。それでも、医療に対する感謝を伝えたい。また、医療の発展に貢献したいと思って下さって、決断して下さったのだということ、本人の意見を尊重しようと受け入れて下さったこと、全てに感謝していかなければならない。そして、その思い、期待されている責任を自分が背負い、果たさなければならないのだという強い思いが、湧いてきたのであった。そのような思いが湧いても尚、精神的な重さ、厳しさはやはりあった。特に最初の1週間。しかし、解剖を行っていくうちに、先ほど述べたような責任感を実感し始めたとともに、生きている人間と死んでいる人間の体の構造に変化はなく、生命の原理である死を怖がりすぎる必要はないという思いや、医師になるものとして、怖がっている、精神的に弱っている場合ではなく、しっかりご遺体からすべてを学び取ろうという気持ちが湧いてきたのであった。  

 振り返ると、本当にこの6週間は精神的、肉体的にも厳しい期間であったが、この実習は、倫理観、知識、様々な観点で今後人生の中で学ぶことのできないような貴重な機会であった。この実習に関わって下さったすべての方々に感謝を伝えたい。そして、これからの人生において、この経験を生かしていくことを約束したい。



武中俊樹


「俺が解剖してよかったのか」

 620日、解剖実習室を出たときに最初に発した言葉だ。やりきれただろうか?いや、胸を張ってそう言える自信はない。ただただ情けなさと、ご献体くださった方とそのご遺族に対して恥ずかしさと罪悪感を覚えた。人体構造の全貌を学ぶには、それがたとえ基礎的な範囲だったとしても、少なくとも私にはあまりにも短すぎた6週間だった。
 511日、明日から始まる長い6週間の解剖実習を前に、白菊会に掲載されている「解剖実習を終えて」を眺めていた。大きな期待感と、そしてある種の不安があった。期待感とはその言葉の通り、実際にこの目で人体を観察することができること、強烈なアウトプットができることである。座学で学ぶどんな知識も、この目で見る記憶には到底及ばない。不安とは端的に「私が解剖をしてよいのか」という問いである。自らのご遺体を医学の発展のために未熟な医学生に捧げてくださるその尊いご遺志に対して、私自身が真摯に応えられるのかという責任感から生じるものである。法的には解剖を行う権利が与えられている。しかし、問題は私自身にその覚悟があるかどうかであった。私には情熱をもって真剣に取り組む毎日の部活があった。遊び半分でないからこそ、両立が大変であることは容易に想像できた。
 その実、周囲の優秀な医学生に比べて圧倒的に予習・復習の量が足りず、その場で学びながら、友人に尋ねながら剖出を進める日も多かった。
 5月の半ば、私は予習が追い付かない現状に対して、先生にカリキュラムに対して疑問を呈した。

「なぜ筑波大学のカリキュラムはこんなに講義としての予習が少ないのですか?」
「それは最初に解剖実習のカリキュラムを考えた教授が実践的な学びの方を優先したからですね」その時はすんなりと頷くことは出来なかったが、解剖実習が終わった今、自分なりに解釈してみたい。結論から言うと、"医学生自身の真摯さを問うているのだと思う。
 全員が事前に横一列に知識を入れた状態で解剖実習を行った方が大学側の教育という観点では良いことは間違いない。しかしそれは受動的な学びであり、医学生自身の「自発的な学びの姿勢」を奪うことになる。どれくらい予習・復習をして解剖実習に臨むのか、解剖実習中にどこまで正確に剖出するのか、教科書に載っていない構造について思考するべきか、他のご遺体と比較して学びを深めるべきか、周囲の優秀な医学生に追いつこうと必死に食らいつくのか。すべて医学生自身の裁量に任されることになる。解剖実習は試験に向けた勉強のように、明確なゴールと道筋が用意されているわけではない。誰かが尻を叩いてくれるわけでもない。だからこそ、自分がどれほど医学生として真摯であるかを問われているのだと考える。
 
最後に、ご献体いただいた故人とそのご遺族の方々をはじめとし、真摯にご指導くださった先生方、共に実習を乗り越えてくれた班員、そして解剖実習を支えてくださった全ての方々に、この場を借りて感謝申し上げます。

中西彩菜


 解剖実習の初日、ネル布に包まれたご遺体がずらりと並ぶ実習室で、私たちはまず初めに解剖実習の法的位置づけについて説明を受けた。私たち医学生は遺体の解剖というセンシティブな行為を特別に許されている立場であるということ。だからこそ、ご献体いただいた方の尊厳を決して傷つけてはならないこと。その重みを知り、医学生として得た学ぶ権利と責任の大きさを改めて実感した。将来、医師になれば、患者に様々な医療行為を施すことが社会的に許されるようになる。しかしそれは、同時に大きな責任を負うことでもある。解剖実習はそうした医師としての責任を初めて自覚する機会であるように感じた。
 実習期間中は毎日が学びの連続であった。人体は複雑であるということは誰もが知っているだろうが、実際にご遺体と向き合ってみると、それまでの自分では想像がつかなかったほど人体が複雑難解なつくりをしていることに驚いた。いくら事前に教科書や図譜で予習をしても、実物を前にするとどれがどの構造か判別できず、まるで初めて訪れた土地で地図を片手に迷子になっているような感覚が最終日まで続いた。しかし、固定されたご遺体でさえこれほど難解なのだから、絶えずダイナミックな生命活動を続ける生きた患者の体はもっと複雑に見えるだろう。そう考えると、今ここで目の前の構造を理解しておかなければこの先の医学の学びに繋がらないという危機感が湧いた。その危機感に後押しされながら、諦めずにご遺体と向き合い続けた結果、多くのことを学ぶことができた。実習室から帰ってきて風呂に入り、鏡に映った自分の体を見ると、その日に解剖した部位の皮膚の下にあるものが透けて見えるような錯覚を覚え、人体に対する解像度が高まったことを実感して嬉しくなった。
 実習に少しずつ慣れ始めたある日のことだ。その日は足底に取り組む日で、他の部位よりも皮膚が固いため作業に苦労していた。その気づきを班員に伝えると、班員は「何十年もこの体を支えてきた足だからね」と零した。その言葉に私ははっとさせられた。この方にも、まだ足底の柔らかい、赤ん坊の時代があったはずだ。やがて自分の足で立つようになり、それから何十年と、あらゆる土地を踏みしめ、体を支え続けてきた、いわばこの方の歩んできた歴史の結晶こそが足底の固さであった。足底だけではない。手が、顔が、臓器が、体を構成する全てが、何十年というその人の生きてきた歴史の果てにあるものだということを想像し、なんという尊いものに触れさせていただいているのだろうと感じた。解剖をただの作業のように感じ始めていた自分が恥ずかしく思えた。それからは一層身が引き締まる思いで、ご遺体の全てから学びを得ようと使命感を持って実習に取り組んだ。

 改めまして、ご献体くださった故人とご遺族の皆さまに心より感謝を申し上げるとともに、故人のご冥福をお祈りいたします。貴重な学びの機会をありがとうございました。



丸山美彩音


 解剖実習室へ足を踏み入れたその先は静かで厳かな空気に包まれていた。実習初日、私はしばらくご遺体にメスを入れることができなかった。命を扱う責任の重大さをこれまで以上に実感した瞬間だった。今まで体内のメカニズムや構造を机上で学んできたが、解剖実習で初めて人間の命に触れ自分が医師になるのだということを強く認識した。その夜、「筑波しらぎく」を読んで私はある決意をした。会報には一人ひとりの経験されてきたことや想いがつづられていた。これから6週間、ご遺体の先生は自身の大事なお身体と生き方をもって私たちに様々なことを教えてくださる。そのご厚意に感謝しできる限り多くのことを学ばせていただこうと心に決めた。
 実習では神経の走行や血管の分岐の仕方などがアトラスと異なることが多々あり、苦戦した。しかしそのような時、班員と話し合ったり他班の人と意見共有をしたり、先生方や技術職員の方々のご指導を仰ぎながら剖出、同定を進めていくことができた。多くの方々に支えられた毎日だった。そして「人の体は教科書通りにはなっておらず個人差がある」ということに気づかされた日々だった。実習期間の途中で指が腱鞘炎になり手袋が入らないほど腫れてしまったが、病院で医師から説明をきいた時、解剖実習前ではふわりとしか理解できなかったであろう言葉や体の仕組みが理解できて興奮した。私の頭の中でスクリーンとして映し出されたのは、アトラスのような平面な図ではなく立体的な人体の構造であり、実習で学んできたことが身についていると実感し深い喜びを感じた。
 この6週間は覚えることが多く大変な日々であるときいていたが、それだけではなく私にとって実際に自分の目で見て手を動かし知識と理解を結びつけていく充実したかけがえのない日々だったと感じている。一人ひとり個性が異なることと同じように体の構造にも個体差があり筋肉の厚みや臓器の大きさ・重さ、血管や神経の走行、分岐の仕方がそれぞれ違っていた。一人の人間として生まれ人生を歩まれてきたのだと思うと人体の緻密さ、複雑さに感動させられた。 
 納棺式での最後の黙祷で私は胸に込み上げてくるものがあった。多くの方々に支えられて6週間を終えることができたという感謝の気持ちでいっぱいになった。人の命、お身体に懸命に向き合うということは将来医師になってからも続く。ご遺体の先生は、私に今後医師として患者一人ひとりに真摯に向き合っていかなければならない大切さを改めて教えてくださった。

 最後になりますが、ご献体くださった故人とそのご遺族、支えてくださった先生方、技術職員の方々、班員、家族に心から感謝申し上げます。このような貴重な機会を与えてくださったすべての方々に感謝し、患者さんの身体だけではなくその人の人生全体に寄り添える医師になれるよう日々努力してまいりたいと思います。


宮城希々子


 解剖実習が始まる前日、私は解剖実習に必要な教材や器具を準備しながら不安でいっぱいだった。これから始まる6週間に耐えられるのだろうか、膨大な暗記量をこなせるのだろうか。なによりも今までの座学とは異なり、ご献体いただいたご遺体を用いての学習という未知の世界に足を踏み入れることに戸惑いがあった。
 実習初日、解剖実習室に入りずらっと並んだ菊の花が添えられたご遺体を前にして、前日に感じた不安は覚悟へと変わった。実習を通してご遺体から学べる限りのことを学べるように努力を怠ってはいけないと感じた。
 実習が始まって1週間は作業に手間取る上にご遺体にメスを入れることへの躊躇があり、なかなか思うように学習を進めることができなかった。今までの講義とは異なり、自分から学ぼうとしないと何も得られないと感じ、実習前の予習を徹底し「どこをどのように探せば目的のものが見つかるか」を意識するとともに、その日に扱った範囲はその日中に復習し疑問点を解決するように心掛けた。実習を通して感じたのは、誰一人として同じ人はいないということである。もちろん実生活の中で顔や体形など外から見える面でも同じ人がいないのは感じられるが、解剖実習を通して体の内面からも十人十色であると知ることができた。具体的には、血管・神経の走行、内臓の大きさや位置などである。アトラスはあくまで一般的な情報が書かれているので実際自分のご体がすべてアトラス通りということはないし、ご体が異なれば全く見え方が異なるのだと改めて感じた。最初の1週間が終わった後はあっという間に残りの5週間が過ぎていた。実習前に想像していた以上に解剖実習が自分の生活の大半を占めるようになり、徐々に知識が増えるにつれて実習中に得られるものも増えていった。最後の2週間は細かい作業に加えて狭い範囲に膨大な知識量を必要としたので心が折れそうになったが、初日に覚悟を決めたように学べる限りのことを学ばなければと自分を奮い立たせた。
 6週間の実習の中で最も心に強く刻まれているのは実習最終日である。それまでの実習では私たちの「先生」としてたくさんのことを学ばせていただいた。しかし、最終日納棺する際には「先生」ではなく、ご献体いただいた一人の人として、その方の人生を深く感じた。改めてご献体いただいた方の尊さとありがたさを感じた瞬間であった。
 印象深く残っている言葉がある。「解剖実習はご献体いただいた方の人生を感じることができる」という言葉である。筋肉の付き方や各内臓の様子からその方がどのような人生を歩んできたのかが少しではあるが想像でき、私たちはそれを感じながら実習をしなければならないと思った。今後医師になっても患者さんそれぞれに人生があり、私たちはそれを最大限理解しながら関わるべきだと感じた。
 
最後にはなりましたが、ご献体いただいた故人とそのご家族の尊い意思に心から感謝いたします。また、解剖実習を支えてくださった先生方や技術職員の方々にお礼申し上げます。



百瀬麻侑


 初めて解剖実習室に入った時の空気感、そして、ご遺体と向き合ったときの全身鳥肌が立つようなあの感覚は感想文を書いている今でも忘れられない。不安や緊張といった言葉では表すことのできない、未知の世界に踏み込んだような不思議な感覚を覚えた。実習がはじまると、深い感謝と敬意が湧いてくるとともに、医者を目指す医学生としての責任を強く感じた。単に「医学を学びたい者」として解剖実習を行わせていただくのではなく、「将来医療に貢献する者」として、学べることを全て吸収しようと強く意識するようになった。莫大な学習項目を前に、学んでも学んでも新たな疑問が浮かび、どれだけ念入りに予習しても実習中にはわからない点が山のようにあった。ゴールの見えない日々は精神的にも体力的にもしんどかったが、毎日たくさんの学びを得て確実に充実していた。今振り返っても6週間の解剖実習は決して楽なものではなかったが、多くのことを学ばせていただいたと同時に命の尊さに触れ、医学生としての自覚が芽生え、非常に貴重な経験となった。
 特に印象に残っているのは血管や神経の走行と役割である。全身中に神経や血管がくまなく巡っていることは想像できたが、やはり実際に解剖をし、その様子を確認すると、現物として自分の中での知識を定着させることができたように感じる。教科書では確認できないような細かい血管の分岐やその終着点が確認できた。また、それまで曖昧だった神経についても明確なイメージを持てるようになった。「神経伝達物質が情報伝達を行い〇○といった役割を担う」と言葉としては理解したつもりでも、実際に神経がどのような形をしたものなのかも、化学物質が情報を伝えるというのがどういうことなのかも、伝達物質によって役割が異なるというのも、いまいちよくわからなかった。しかし、解剖実習を経て神経そのものやその分岐・走行をこの目で確認してから、神経伝達という曖昧なイメージが、もう少し具体性を持った知識となり、神経という概念が自分の中で腑に落ちた。脳神経の解剖は非常に興味深かった。自力で神経を綺麗に剖出できたときの興奮は忘れられない。教科書だけでは学べないことがあると強く実感し、本実習で得た学びを今後の学習にも活かしたいと思った。
 長いようで短かった解剖実習を終え、多くの医学的事項を学ぶことができたのはもちろんだが、何よりも医学生としての意識、学ぶ姿勢が変わり、大きく成長した。これまで私が一生懸命勉強してきたモチベーションは全て自分のためであった。単に医学が面白かったり、テストでいい点を取りたかったり、そんなものだった。しかし、解剖実習を経て、ご献体いただいた故人とそのご遺族の方々に思いを馳せ、医学生である自分には医療の発展へ貢献する責任があり、医学に真摯に向き合おうと前向きな気持ちになった。

 最後に、解剖実習を支えて下さった全ての方々に心より感謝申し上げます。精進します。


森下美海


 解剖実習が始まる⽇、私は⾃分の死⽣観がガラリと変わってしまうのではないかと強い恐怖感を感じていた。これまで私は、何度か⼈と動物の死に向き合ったことがある。特に、⻑年ともに過ごした猫が冷たく横たわっていた⽇の朝の記憶は今でも鮮明に⼼に残っている。その時私は、家族として深い悲しみを抱き、その死は⾔葉にならないほどに私の中に重く刻み込まれた。しかし、今回の解剖実習で私たちが向き合う「先⽣」とは⾔葉を交わしたこともなければ、その⼈⽣の背景を知っているわけでもない。そのことに私は⼾惑い、そして恐れを感じていた。これは、将来医者として避けられない「死」と向き合う最初の経験であると同時に、その「死」が⾃分の中で当たり前になることへの恐怖でもあった。初めて解剖実習室に⾜を踏み⼊れた時、⽩い布に包まれ、菊の花が添えられたご遺体を⽬にして、私は悲しみや恐怖、緊張、そして解剖実習室に漂う重く冷たい空気を感じた。しかし、毎⽇の実習を重ねるごとにその感情は徐々に薄れていき、私はその変化に葛藤し、罪悪感を抱くようになった。
 その苦しさを埋め合わせるように、私は実習の予習と復習に打ち込んだ。⼈体の精巧で合理的な機能や構造に触れれば触れるほど、その奥深さに気づき、より理解を深めたいという思いが強くなった。しかし、知識を追い求めるほどに、ご献体くださった⽅が⼀⼈の⼈間であったことやご家族の尊い思いから⾃分が遠ざかっていくような感覚に苦しさは増すばかりであった。そんな時、ご献体登録の窓⼝をされている技術職員の⽅のお話を伺う機会があった。
 「私の⼝から、ご献体登録をいただく⽅にその理由をお伺いすることはありませんが、その経緯をお話ししてくださる⽅がとても多いんです」その⾔葉を聞いたとき、私は初めて、ご献体いただいた故⼈は⼈体の構造への理解を深めるための先⽣であるだけでなく、私が抱えていた葛藤や苦しさそのものと向き合うための「先⽣」でもあったのだと気づいた。
 この実習を通して、私は「死」をただ恐れるのではなく、それを通して学ぶ姿勢の⼤切さ、そしてその背景にある⼀⼈ひとりの⼈⽣の重みを深く感じるようになりました。これから医師として命と向き合う道を進んでいく中で、この経験は私の⽀えとなり、決して忘れることはないと思います。

 最後に、尊いお⾝体を私たちの学びのためにお預けくださった故⼈とそのご家族の皆様に、⼼より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。



横山乃綾

 
 解剖実習では、解剖学の知識だけでなく本当にたくさんのことを学んだ。アトラスでは理解しづらい人体の構造の立体感、アトラスや実習の手引きと目の前のご遺体は別物だということ、仲間と議論を重ね協力して学びを深めていくことの楽しさと難しさ、命の尊さなどここには書ききれないほどである。6週間という時間で学び、考えたことは医師になるために必要不可欠であると実習を終えた今、感じている。
 解剖実習はネル布を取り、ご遺体と対面した後、皮剝ぎからスタートした。皮膚を剝ぐなんて痛そうだと思って初めは手が止まりがちであったが、下層に見えてきた脂肪や筋肉の層を目の当たりにすると、自分自身の目で初めて見た人体の内部構造に感動を覚えた。そこからは自分の手で解剖を進めて新しい世界を見ることが面白く、あっという間に時間が過ぎていった。本とご遺体を何度往復しても同定ができなかったり、あるはずなのに見つけられなかったりして何度も立ち止まった。中間試問を経て実習が終わりに近づくにつれて、アトラスや実習の手引きとご遺体は別物であり、解剖実習ではご遺体から学ぶことが重要であると痛感した。これまで教科書に従った勉強ばかりをしてきた私にとって、この思考の転換は衝撃的であった。しかし、臨床の場において医師は論文などの書物を相手にするのではなく目の前の患者と向き合わなければならないので、解剖実習で身に付けたこの発想は将来に非常に役立つと思う。
 解剖実習の期間は毎日数時間の実習と予習・復習に追われ、体力的にも精神的にも決して楽ではなかった。ご遺体と長い時間を過ごしているうちに、生前はどんな生活をしていたのだろう、どうして献体することになったのだろうなどと様々な疑問が脳内を駆け巡った。お看取りをすることも多い医師の仕事に対する不安が芽生えたり、身近な人や自分の死を想像して暗い気持ちになったりすることもあった。しかし、納棺の際にお花を添えて実習最後の黙祷をした時には実習前よりもはるかに気持ちが強くなり、死に向き合う覚悟と責任感が生まれた。「学ぶ」ということから逃げ出したくなることもたくさんあったが、それでも最後まで頑張り続けることができたのは向上心を持ち続け、何度でも励まし合った仲間の存在のおかげだ。

 最終試問を終えて喜び合った時の気持ちは決して忘れることがないだろう。解剖実習を共に乗り越えたことにより、また一段と絆が深まったように感じる。



解剖実習を終えて(令和6年度)

医学群 医学類 2

稲見奈桜


 実習初日、緊張しながら初めて足を踏み入れた解剖実習室。その時に目に映った光景を鮮明に覚えている。整然と並んだ数十の解剖台の上には、白い布に包まれたご遺体が安置されていた。それを目にした瞬間、これから始まる6週間の実習への意欲、緊張、そして不安…様々な感情が湧き上がった。しかし、その不安や緊張は、白い布を取り除きご遺体の顔を目にしたその瞬間に消え去った。しばらくして湧き上がってきた感情は、ご献体された方とそのご遺族の方々に対する敬意と感謝の気持ちだった。 そこからの6週間はまさに目まぐるしい日々であった。実習は体力的にも精神的にも想像以上に大変だった。すべてを学ばせていただこうと、一瞬たりとも気を抜かず、一日に何時間もご遺体と向き合った。実習が終わり家に帰ると、すぐにその日の復習と次の日の予習を行った。剖出の手引き・解剖学の教科書・アトラスなどを駆使して、不明な点を一つ一つ解決しようと努力した。疑問が1つ解消すると、さらなる疑問が生じる。そのため、予習復習は連日深夜にまで及んだ。朝はできるだけ早起きし、必ずその日の剖出手順の確認をしてから実習に臨んだ。このようなサイクルを続けていくうちに、だんだんと心の余裕がなくなってきた。それと同時に知識を得ることに夢中になるあまり、ご献体くださった方への感謝と敬意を忘れかけ、自分の中で解剖が単なる作業になりつつあることにふと気付いた。 そのことを私は素直に祖父に話すと、驚くべき話を聞くことができた。なんと最近亡くなった祖父の古い友人が、筑波大学附属病院での入院中に献体登録の申請をしていたというのだ。そして、ご家族は故人の帰りをずっと待っていると。私はご献体された方の思いとご家族の思いを改めて考えた。今まではご献体くださった方の思いを理解していたつもりになっていただけではないだろうか。ご遺体はモノではない。解剖実習で自分が向き合っているご遺体は何十年もの人生を歩んできた人間である。亡くなられても帰りを待つ人がいる。それぞれの思いを改めて想像し、感謝と敬意を忘れかけた自分を恥じた。それからは実習中に感謝と敬意を忘れることは一瞬も無かった。たくさんの方々の思いを感じ、敬意を抱きながら実習に励むことができた。この6週間、後悔の無いように実習に対して全力で向き合った。少しでも多くのことを先生であるご遺体から学ぼうと、貪欲な姿勢を貫いた。解剖実習最終日の武井医学群長の「医学は紙の上では学べない」というお言葉がとても印象に残った。まさにその通りである。今、解剖実習を通して知識を得ただけではなく、命に対する感謝と敬意という医学生として大切な精神も学ぶことができたと実感している。

 最後になりますが、ご献体くださった故人、そのご家族、ご指導いただいた先生方に心から感謝を申し上げます。実習で経験したことを生涯忘れることなく、これからも医学に対して真摯に向き合い、立派な医師になることを目指し、日々精進したいと思います。



犬塚響祐


 解剖実習が始まる前、実際のご遺体を基に解剖学を勉強する意味を私は疑問に思っていた。つまり、CGVRの技術が発展した今、コンピューター上のシミュレーションで解剖をすることはできないのかと考えたのである。しかし、6週間の実習を終えて、その考えは私の中で完全に打ち消されたと言える。そして、ずっとこのままの形式で解剖実習を行なって欲しいと思うようになった。ここでは、そのような観点から解剖実習を振り返ろうと思う。解剖実習をシミュレーションで代替できないと感じた理由の1つ目は、「人の体はアトラス通りではないから」である。実習中、ご遺体の筋肉の大きさや神経の走行が教科書・アトラスの記載と異なることが何度もあり、剖出の際に大いに苦戦した。観察したい神経が全然見つからず、隣の班に訊きに行くこともよくあった。一方、シミュレーションで解剖実習をするなら、観察するのは言わば標準化された人体モデルになるはずだ。すると、筋肉や血管は全ての班で同じものがみえるはずである。そのような環境で、各構造の剖出・同定の難しさ、人によって構造が異なるということの不思議さを感じることはできないと思う。ご遺体を使わせていただくことのメリットの2つ目は、メスやピンセットの上手な使い方を学ぶことができることだ。解剖実習初日、メスがどれほど切れるものなのか想像がつかなかった私は、皮膚を剥ぐはずがその下の筋肉まで切りそうになったのを覚えているが、実習の後半では見違えるほどに素早く作業を行えるようになった。また、どのピンセットが使いやすいか、持っていて一番疲れにくいのはどれかなども知ることができた。この学びは、シミュレーションで果たして得られるだろうか。
 3つ目にして最大の理由は、ご献体いただいた故人やそのご家族への感謝の気持ちを持つことができるからである。実習初日に初めてご遺体と対面したときのあの独特な雰囲気を、私は一生忘れないと思う。また、実習の開始時と終了時に黙祷を必ず行なったこともとても印象深く残っている。このように、医学の発展のためにご献体くださっているその遺志の尊さは、シミュレーションの人体モデルからは感じ取れないのではないかと思う。もちろん、コンピューターを使ったシミュレーションにも利点はたくさんあると思う。一つは、ご遺体を準備し、また解剖実習中の環境を整えてくださっている先生・技術職員の方々の負担が軽減されることだ。また、剖出を進めても巻き戻しができることは、自己学習の際に大いに役立つと思う。しかしながら、これらの利点が、前述したことを覆せるとは思えないのである。仮にシミュレーションを導入するにしても、解剖実習の全てを置き換えるのではなく、一部分のみに導入するのが妥当だと思う。

 解剖実習を終えた今、このような理由から、今の形の解剖実習をなんとか維持して欲しいと思う。一方、私たちが解剖実習を行うことができたのは、やはりご献体いただいた故人とそのご家族の尊い意思があってこそだと思う。改めてその遺志に深く感謝し、ご遺体を基に培った知識を使って医学の発展に寄与できるよう、これからも努力したいと思う。



長田早瑛


 私が医者になろうと決意したのは、中学生の時に心臓の手術を受けたことがきっかけです。長い入院生活と手術への不安を取り去り、健康な身体で日常生活を送ることを可能にして下さった主治医の先生方に憧れ、心臓血管外科医になることを決意しました。心臓血管外科医としてたくさんの患者さんを治療するという志を遂げるべく筑波大学の医学群医学類に入学して早2年目の6月、こうして人体解剖実習を無事に終えることができました。
 外科医志望ということもあり、医学類のカリキュラムの中で最も楽しみにしていたのが人体解剖実習でした。解剖実習の日が近づくに連れて、心待ちにしていた実習に参加できることへの喜びが増していきました。しかしその一方で「ご遺体を扱う」ということへの実感と、それに伴う緊張感も増していくのを感じました。そして迎えた解剖実習初日、初めて入る解剖実習室のひんやりとした空気と各解剖台に安置されたご遺体に背筋が伸びました。いざご遺体と対面し実習を開始するとなった時、班員全員がメスを入れるのをためらい、しばらく行程に取り掛かることができなかったのをよく覚えています。ご遺体が一人の人間として人生を全うされた方であること、そんなご遺体を解剖させて頂くのには大きな責任が伴うことなどを痛感し、それまでに感じていた以上の緊張感に包まれました。
 この緊張感は解剖実習を終えるまで消えることはありませんでした。しかし回数を重ねていくと同時に、身体の構造を実際に見て・触って学ぶことへの喜びと楽しさをひしひしと感じるようになりました。中でも印象に残ったのは、心臓の剖出と観察です。心臓の構造や大きさはもちろん、自分が手術を受けた部位を実際にこの目で見て確かめるという貴重な経験を得ることができました。心臓以外の様々な構造物に対しても、その構造や大きさ、配置を観察し、疾患や各機能に繋げて理解することで、よい勉強になりました。しかし、解剖実習は楽しいことばかりではありませんでした。教科書通りではない構造や細かい組織の剖出に混乱したり、人体の複雑な構造に伴う膨大な暗記量に戸惑ったりと、上手くいかないことも多々ありました。医師として働くことの難しさを身をもって理解し、将来への不安さえも覚えましたが、この実習を無事に乗り越えることができたのは班のメンバーのおかげです。6週間もの間互いに教え、支え合ったメンバーには感謝の気持ちが尽きません。

 今回の解剖実習を経て、心臓血管外科医になるという目標の達成には多くの困難が伴うであろうことを痛く思い知り、これまで以上の努力が必要であることを実感しました。しかし、心臓血管外科医という職業への憧れの気持ちをこれまで以上に抱くようになったのは事実です。ご献体下さった方々とそのご家族の方々に深く感謝し、これからも一層勉学に励んでいきます。


久野詩織


 1カ月半の解剖実習を終えて、解剖実習はたくさんの方の遺志を背負い、学んだ知識は臨床において基礎となり、班員とのチームワークを培うことのできる貴重な経験であったと気づくことができた。実習が始まる前は、精神面、体力面において途中で辛くなってしまわないだろうか、ご遺体を目の前にし、死に直面した中で平然と解剖ができるのだろうか、など多くの不安を抱えていた。一方で実際に筋肉や血管、神経などヒトの体の構造について自分の目で観察することができる機会なので非常に興味を持っていた。
 実習が始まってからは、不安よりも学習意欲が勝り、ヒトの体の構造や発生に非常に興味を持ち、手探りではあるがより多くの知識を身につけようと実習に夢中になっていた。教科書やアトラスで予習をしてきても、実際にご遺体に向き合い神経や血管などを探してみると、図で見た通り簡単なことではなく、特に血管の走行は教科書とは異なり破格であることもあった。そんな中で、先生方の丁寧なご指導も相まって教科書の図と異なる部分の同定もしっかり行うことができ、非常に充実した学びを得ることができた。一方、上皮小体など観察できなかったところや、納得できるほど剖出ができず悔いが残った部分もあった。神経は見つかっても何がどの名称なのか同定することも難しく、しっかり剖出した上で走行を確かめて、初めて同定できることが多かった。このように、教科書をただ眺めて記憶するだけでは、外科手術などで対応できなくなってしまうことを実感した。また、自分の手で解剖し、自分の目で観察できたことでより深い知識と理解を得ることができたように感じた。実習最終日に花束を買いに行った。お店で受け取った花束はなぜか重く感じ、約1カ月半向き合ってきた一人の人に対してのたくさんの想いや感謝が詰まっているように感じた。
 解剖実習全体を通して先生方が実習開始前から仰っていた、ご遺体が先生であるという言葉を身に染みて感じた。実習を通して学習することで解剖学の楽しさに触れ、当初の不安を忘れ学習に一心に取り組み実習を終えることができた。医学生でなくてはできない貴重な機会であったことを強く認識し、実習を終えて残った後悔を踏み台に今後の勉強に活かしたい。また、ご献体くださった方々の想いに応え立派な医者になるために精進し続けなくてはならないと感じた。

最後に、ご献体いただいたご本人及びご家族の尊い意志に対して尊敬の念を示し、感謝申し上げます。また、実習を支えてくださった技術職員の方、実習をサポートしてくださった先生方、解剖学を学ぶ機会を与えてくださったすべての方へ心から御礼申し上げます。

二村祥太

 解剖実習を終えて、人体の生物としての特異性と構造の精密さに感動を覚えた。表層から浅層へ、浅層から深層へと解剖を進めていくたびに複雑な構造が現れてきたのは今でも忘れられない。解剖実習が始まってしばらくは解剖実習室での非現実的な雰囲気によって思考がまとまらなかったのを覚えている。ご体とほとんど同じ構造が自分の中にもあるということを単に言葉としてではなく、身をもって体感し始めたのは実習期間の中頃になってからであった。教科書の文字と絵からだけでは得られない実際の組織の大きさ、触感、強度、色あいといった情報は、今後の座学で病気を学んでいく上でとてつもない理解の助けになるだろうと思った。たとえば、「血管を縫い合わせる」というのはよく耳にする言葉であるが、文面としては理解できても、実際の様子は想像もつかないというのがこれまでであった。しかし、解剖実習で実際の血管を見たり触れたりすることで、身をもって血管の縫合は精密な動作を要求されることは想像に容易かった。
 また、全身の解剖の中でも、心臓の解剖は非常に興味深いものであった。心臓の物理的な構造の精密さのみならず刺激伝導系といった生理的なシステムの両方が協調することが非常に興味深かった。興味深かった構造はまだある。それは内耳の構造である。内耳は半規管の3つのループをもち、それらは互いに垂直になるように配置されている、その機能として、各ループは角加速度を感知するとのことである。これらのことから、半管の各ループはそれぞれの軸方向の加速度を感知し、3次元的な角加速度を感知するのに必要十分な構造なのではないか?と考えたりするのが非常に楽しかった。それに加えて、前庭の構造は直線加速度を感知するということから、半規管と前庭器官は工学におけるジャイロセンサーと加速度センサーの役割をそれぞれ持っている。工学的に必要な装置がジャイロセンサーと加速度センサーに分かれているように人体のセンサーも同じく分かれている。つまり機能と構造の分け方が工学と生物学で同じということにも感動を覚えた。これらの構造や仕組みが長い時間をかけて進化してきたことに感動し、解剖実習期間に設けられていた講義で学んだ発生学にも興味を持つようになり、発生の過程を知ることは解剖学的な構造を理解する助けとなった。
 およそ6週間の解剖実習で学んだのは、座学としての解剖学という範囲にとどまることなく、解剖班での共同作業、ご献体くださった方やそのご遺族との向き合い方といった座学以外の要素も大きく、そのどれもが医師として生きていくために必要な要素であったと今になってではあるがしみじみと感じており、この解剖実習が自分を大きく成長させてくれたという実感を手にしている。

 改めてご献体くださった方、そのご遺族、教員の方々、解剖実習のための準備を行なってくださった技術職員の方々、そして班員に感謝を申しあげたい。


服部想惟


6週間の解剖実習を振り返ると、人体の構造を実際に観察することで多くの学びを得られた一方で、「死」についても考えさせられた。
 解剖実習初日、ご遺体を包んでいる白い布を開けて実際にご献体くださった方を目にすると、解剖することに対する不安と恐怖でなかなかメスを入れられなかったのを覚えている。一度メスを入れると解剖実習が始まったことを実感し、身が引き締まるような思いがした。ご遺体はご献体くださった故人とそのご家族が私たちの学習のためにご協力いただいたものである。そのため私たちはご献体いただいた故人に満足していただけるようにご遺体からできる限り多くのことを学ぶ義務があるという考えが常にあった。当然、故人は満足したからといって褒めてくれたりすることはない。だからこそ、故人に間違いなく「献体した甲斐があった」と思ってもらえるよう、解剖実習期間中は毎日実習があって時間的にも体力的にもとても過酷だったが日々の予習復習は決して欠かさずに行った。それでも、教科書やアトラスにある二次元の図と実際にご遺体で見る構造は見え方が全く異なり混乱することもあった。また血管や神経の走行、および臓器などについてアトラスなどで予習していっても、実際のご遺体とは異なることもしばしばあった。このような経験は座学だけでは絶対にできず実際に人体解剖をしたからこそ得られたものだと思う。
 納棺式の日、雨が降りしきる中、初めて花束を買いに行った。その花束は精巧にできている人体の構造のように非常に美しいものだった。納棺式でのご献体くださった方とのお別れの時には、6週間にわたって私たちの「先生」として非常に多くのことを教えてくださった故人に対する感謝の気持ちで一杯だった。この感謝の気持ちを今後も決して忘れないようにしたい。この6週間、私は予習・解剖実習・復習のサイクルで日々精一杯学習したつもりだが、ヒトの構造で覚えるべきことはあまりにも膨大で実習期間中には理解しきれなかったことも山ほど残っている。それだけヒトの構造は繊細でかつ緻密にできているということがわかった。解剖実習を通して学んだことは今後の医学の学習においても非常に重要なことであると考える。6週間に及ぶ解剖実習を通して得たかけがえのない知識や経験を胸に刻み、将来立派な医師になれるよう今後の医学の学習に励みたい。
 
最後に私たちの解剖実習をサポートしてくださった先生方や先輩方、ご遺体を準備してくださった技術職員の方々、困った時に助けてくれた班員、そしてなにより私たちの解剖実習のために自らのお身体を提供してくださった故人とそのご家族に感謝を伝えたい。



宮川凜胡


「解剖学の答えはご遺体の中にあります」

 先生が解剖学の実習を通して繰り返し仰っていた言葉だ。この言葉を体感できるようになったことが、解剖実習を終えて最大の成果であると感じている。解剖実習は医学生として初めて人体を相手にする機会で、初めての正解がわからない実習だった。初めのころは人体構造の名称がわからず、剖出の手順を追う上で教科書や図解本を参照しないと解剖は学べないと思い込んでいた。一方で、何度も人体解剖を担当されてきたはずの解剖学の先生方が、今回のご遺体にも熱中している様子を見て、ご遺体ひとりひとりにそんなに違いがあるものなのかと、自分の担当だけでなく、解剖実習室全体のご遺体に目を向けられるようになった。筋肉や脂肪のつき方や色形に加え、血管や神経の走行までも異なり、それぞれの小さな違いに対応するようにその他の配置がずれており、個々の体において機能を維持するためにバランスを保った構造ができ上がっている様子に大変驚いた。また、そのような違いがあってもなお、ヒトとして同じように体が機能しているのだということに感銘を覚えた。さらに、解剖実習を通して、知識面、精神面でも大きく成長できた。実習では朝から夕方まで解剖実習室で剖出し、夜には予習や試験勉強。これまでのどんな時よりも、生活のなかで医学の勉強に費やす時間が長くなり、それでも足らないと時間があれば教科書を開いていた。ご遺体を無駄にせずしっかり学べるように、班員に迷惑をかけないようにと追い込む半ば、疲労からか発熱した日があった。患者として内科に罹り、受けた診断は急性扁桃炎だった。それまでにも罹患したことはあったが、扁桃を剖出した後に聞くと、見え方が変わっていた。体のどこでなにが起こっているのか想像できることが嬉しく、学習してきたことが報われたように感じ、私が選んだ生涯の専門分野なのだと、ようやく心から自覚できた。
 このように、解剖実習で実際のご遺体すなわち人の体を剖出する意義は基礎知識を得ることだけではなく、その上に求められている。実際のヒトを前に、教科書のように明確な答えがない中、何を正しいこととして追い求めるべきか、責任感、倫理観を育むことができたと思う。この6週間は私を含め多くの医学生にとって、医師になる将来を見据える上で、欠かせないターニングポイントとなると確信している。

 最後に献体することを決断されたご本人とご家族の皆様に加え、お世話になった先生方、技術職員のみなさまに心からの感謝を申し上げたい。解剖実習中に先生方と直接お話をさせていただく機会が多くあったおかげで、様々なことを考え、広い学びに繋げられたと確信している。このような機会を与えてくださった全ての方への感謝を忘れずに、これからの生活では医学生としての責任感を忘れずに一層精進していきたい。



安本理穂子

およそ1カ月間の解剖実習を終え、実家に帰ると母に言われた一言。「なんだか顔つきが変わったね」と。一日中解剖漬け、勉強漬けの、今思い返してもハードな毎日を通して、医学生としての意識が確かに変わったことを自分でも感じている。
 私は医学生になった時から、最も懸念していたのが解剖実習だった。医療ドラマを見ている時、手術のシーンは怖くて見ることができなかったし、薬理学の実習で蛙を扱った時も平気な顔をしている同期達に驚愕した。人体の解剖なんて自分には絶対にできない、どうして医学に入ってしまっただろう、と、何度母に泣きついただろう。解剖実習初日が迫ってくるにつれ、気が重くなるばかりだった。しかし、迎えた解剖実習初日、ご遺体と対面した私は、もう後戻りできないと自分の中で覚悟が決まったのを感じた。人体解剖は怖くて泣きたかったし逃げたかったけれど、ご遺体と対面した時、その行為はご献体頂いた故人とそのご家族に対して失礼だと直感的に思った。このご遺体に誠意と感謝を持って解剖実習に臨んでいかなければならない、そう覚悟を決めて解剖実習が始まった。解剖実習期間は、身体的にも心理的にも想像以上に厳しい毎日だった。解剖実習の予習・復習や試験勉強に追われ、その上1限のために早く起きなければならず、疲労が溜まっていくばかりだった。そのような日々でも自分を奮い立たせることができたのは、間違いなく班員のおかげだと思っている。剖出がうまくいかないときはフォローしあい、疲労が溜まっているときは声を掛け合い、常に助け合って実習が進んだ。問や試験の直前はお互いが情報共有して学習内容を教え合い、全員で乗り越えようとモチベーションを高めてくれた。この班でなければ、厳しい1カ月間を乗り越えることはできなかった。解剖班の3人に心から感謝している。解剖実習を振り返ると、鮮明に記憶が蘇ってくる。解剖実習室特有のあの匂い、ご遺体に触れた時の感触、初めて自力で神経を剖出できた時の興奮、人体の精巧な作りを目の当たりにした時の感動。その一つ一つを五感で覚えている。これらの記憶は、私が将来どのような道に進んでもかけがえのないものであり、忘れることはできないだろう。解剖実習を通して、医学生としての自覚が確実に高まった。これからの姿勢を持って、ご遺体やそのご家族に誠意と感謝を示していきたいと思う。

 最後に、献体くださった方とそのご家族、ご指導いただいた先生方、解剖実習に関わった全ての方々に感謝申し上げます。本当にありがとうございました。この経験を最大限に活かし、自分が理想とする医師の姿に近づけるよう邁進していきます。