解剖実習を終えて(令和6年度)
医学群 医学類 2年
稲見奈桜
実習初日、緊張しながら初めて足を踏み入れた解剖実習室。その時に目に映った光景を鮮明に覚えている。整然と並んだ数十の解剖台の上には、白い布に包まれたご遺体が安置されていた。それを目にした瞬間、これから始まる6週間の実習への意欲、緊張、そして不安…様々な感情が湧き上がった。しかし、その不安や緊張は、白い布を取り除きご遺体の顔を目にしたその瞬間に消え去った。しばらくして湧き上がってきた感情は、ご献体された方とそのご遺族の方々に対する敬意と感謝の気持ちだった。そこからの6週間はまさに目まぐるしい日々であった。実習は体力的にも精神的にも想像以上に大変だった。すべてを学ばせていただこうと、一瞬たりとも気を抜かず、一日に何時間もご遺体と向き合った。実習が終わり家に帰ると、すぐにその日の復習と次の日の予習を行った。剖出の手引き・解剖学の教科書・アトラスなどを駆使して、不明な点を一つ一つ解決しようと努力した。疑問が1つ解消すると、さらなる疑問が生じる。そのため、予習復習は連日深夜にまで及んだ。朝はできるだけ早起きし、必ずその日の剖出手順の確認をしてから実習に臨んだ。このようなサイクルを続けていくうちに、だんだんと心の余裕がなくなってきた。それと同時に知識を得ることに夢中になるあまり、ご献体くださった方への感謝と敬意を忘れかけ、自分の中で解剖が単なる作業になりつつあることにふと気付いた。
そのことを私は素直に祖父に話すと、驚くべき話を聞くことができた。なんと最近亡くなった祖父の古い友人が、筑波大学附属病院での入院中に献体登録の申請をしていたというのだ。そして、ご家族は故人の帰りをずっと待っていると。私はご献体された方の思いとご家族の思いを改めて考えた。今まではご献体くださった方の思いを理解していた“つもり”になっていただけではないだろうか。ご遺体はモノではない。解剖実習で自分が向き合っているご遺体は何十年もの人生を歩んできた人間である。亡くなられても帰りを待つ人がいる。それぞれの思いを改めて想像し、感謝と敬意を忘れかけた自分を恥じた。それからは実習中に感謝と敬意を忘れることは一瞬も無かった。たくさんの方々の思いを感じ、敬意を抱きながら実習に励むことができた。
この6週間、後悔の無いように実習に対して全力で向き合った。少しでも多くのことを“先生”であるご遺体から学ぼうと、貪欲な姿勢を貫いた。解剖実習最終日の武井医学群長の「医学は紙の上では学べない」というお言葉がとても印象に残った。まさにその通りである。今、解剖実習を通して知識を得ただけではなく、命に対する感謝と敬意という医学生として大切な精神も学ぶことができたと実感している。
最後になりますが、ご献体くださった故人、そのご家族、ご指導いただいた先生方に心から感謝を申し上げます。実習で経験したことを生涯忘れることなく、これからも医学に対して真摯に向き合い、立派な医師になることを目指し、日々精進したいと思います。
犬塚響祐
解剖実習が始まる前、実際のご遺体を基に解剖学を勉強する意味を私は疑問に思っていた。つまり、CGやVRの技術が発展した今、コンピューター上のシミュレーションで解剖をすることはできないのかと考えたのである。しかし、6週間の実習を終えて、その考えは私の中で完全に打ち消されたと言える。そして、ずっとこのままの形式で解剖実習を行なって欲しいと思うようになった。ここでは、そのような観点から解剖実習を振り返ろうと思う。
解剖実習をシミュレーションで代替できないと感じた理由の1つ目は、「人の体はアトラス通りではないから」である。実習中、ご遺体の筋肉の大きさや神経の走行が教科書・アトラスの記載と異なることが何度もあり、剖出の際に大いに苦戦した。観察したい神経が全然見つからず、隣の班に訊きに行くこともよくあった。一方、シミュレーションで解剖実習をするなら、観察するのは言わば標準化された人体モデルになるはずだ。すると、筋肉や血管は全ての班で同じものがみえるはずである。そのような環境で、各構造の剖出・同定の難しさ、人によって構造が異なるということの不思議さを感じることはできないと思う。ご遺体を使わせていただくことのメリットの2つ目は、メスやピンセットの上手な使い方を学ぶことができることだ。解剖実習初日、メスがどれほど切れるものなのか想像がつかなかった私は、皮膚を剥ぐはずがその下の筋肉まで切りそうになったのを覚えているが、実習の後半では見違えるほどに素早く作業を行えるようになった。また、どのピンセットが使いやすいか、持っていて一番疲れにくいのはどれかなども知ることができた。この学びは、シミュレーションで果たして得られるだろうか。3つ目にして最大の理由は、ご献体いただいた故人やそのご家族への感謝の気持ちを持つことができるからである。実習初日に初めてご遺体と対面したときのあの独特な雰囲気を、私は一生忘れないと思う。また、実習の開始時と終了時に黙祷を必ず行なったこともとても印象深く残っている。このように、医学の発展のためにご献体くださっているその遺志の尊さは、シミュレーションの人体モデルからは感じ取れないのではないかと思う。もちろん、コンピューターを使ったシミュレーションにも利点はたくさんあると思う。一つは、ご遺体を準備し、また解剖実習中の環境を整えてくださっている先生・技術職員の方々の負担が軽減されることだ。また、剖出を進めても巻き戻しができることは、自己学習の際に大いに役立つと思う。しかしながら、これらの利点が、前述したことを覆せるとは思えないのである。仮にシミュレーションを導入するにしても、解剖実習の全てを置き換えるのではなく、一部分のみに導入するのが妥当だと思う。
解剖実習を終えた今、このような理由から、今の形の解剖実習をなんとか維持して欲しいと思う。一方、私たちが解剖実習を行うことができたのは、やはりご献体いただいた故人とそのご家族の尊い意思があってこそだと思う。改めてその遺志に深く感謝し、ご遺体を基に培った知識を使って医学の発展に寄与できるよう、これからも努力したいと思う。
長田早瑛
私が医者になろうと決意したのは、中学生の時に心臓の手術を受けたことがきっかけです。長い入院生活と手術への不安を取り去り、健康な身体で日常生活を送ることを可能にして下さった主治医の先生方に憧れ、心臓血管外科医になることを決意しました。心臓血管外科医としてたくさんの患者さんを治療するという志を遂げるべく筑波大学の医学群医学類に入学して早2年目の6月、こうして人体解剖実習を無事に終えることができました。
外科医志望ということもあり、医学類のカリキュラムの中で最も楽しみにしていたのが人体解剖実習でした。解剖実習の日が近づくに連れて、心待ちにしていた実習に参加できることへの喜びが増していきました。しかしその一方で「ご遺体を扱う」ということへの実感と、それに伴う緊張感も増していくのを感じました。
そして迎えた解剖実習初日、初めて入る解剖実習室のひんやりとした空気と各解剖台に安置されたご遺体に背筋が伸びました。いざご遺体と対面し実習を開始するとなった時、班員全員がメスを入れるのをためらい、しばらく行程に取り掛かることができなかったのをよく覚えています。ご遺体が一人の人間として人生を全うされた方であること、そんなご遺体を解剖させて頂くのには大きな責任が伴うことなどを痛感し、それまでに感じていた以上の緊張感に包まれました。 この緊張感は解剖実習を終えるまで消えることはありませんでした。しかし回数を重ねていくと同時に、身体の構造を実際に見て・触って学ぶことへの喜びと楽しさをひしひしと感じるようになりました。中でも印象に残ったのは、心臓の剖出と観察です。心臓の構造や大きさはもちろん、自分が手術を受けた部位を実際にこの目で見て確かめるという貴重な経験を得ることができました。心臓以外の様々な構造物に対しても、その構造や大きさ、配置を観察し、疾患や各機能に繋げて理解することで、よい勉強になりました。
しかし、解剖実習は楽しいことばかりではありませんでした。教科書通りではない構造や細かい組織の剖出に混乱したり、人体の複雑な構造に伴う膨大な暗記量に戸惑ったりと、上手くいかないことも多々ありました。医師として働くことの難しさを身をもって理解し、将来への不安さえも覚えましたが、この実習を無事に乗り越えることができたのは班のメンバーのおかげです。6週間もの間互いに教え、支え合ったメンバーには感謝の気持ちが尽きません。
今回の解剖実習を経て、心臓血管外科医になるという目標の達成には多くの困難が伴うであろうことを痛く思い知り、これまで以上の努力が必要であることを実感しました。しかし、心臓血管外科医という職業への憧れの気持ちをこれまで以上に抱くようになったのは事実です。ご献体下さった方々とそのご家族の方々に深く感謝し、これからも一層勉学に励んでいきます。
久野詩織
約1カ月半の解剖実習を終えて、解剖実習はたくさんの方の遺志を背負い、学んだ知識は臨床において基礎となり、班員とのチームワークを培うことのできる貴重な経験であったと気づくことができた。
実習が始まる前は、精神面、体力面において途中で辛くなってしまわないだろうか、ご遺体を目の前にし、死に直面した中で平然と解剖ができるのだろうか、など多くの不安を抱えていた。一方で実際に筋肉や血管、神経などヒトの体の構造について自分の目で観察することができる機会なので非常に興味を持っていた。
実習が始まってからは、不安よりも学習意欲が勝り、ヒトの体の構造や発生に非常に興味を持ち、手探りではあるがより多くの知識を身につけようと実習に夢中になっていた。教科書やアトラスで予習をしてきても、実際にご遺体に向き合い神経や血管などを探してみると、図で見た通り簡単なことではなく、特に血管の走行は教科書とは異なり破格であることもあった。そんな中で、先生方の丁寧なご指導も相まって教科書の図と異なる部分の同定もしっかり行うことができ、非常に充実した学びを得ることができた。一方、上皮小体など観察できなかったところや、納得できるほど剖出ができず悔いが残った部分もあった。神経は見つかっても何がどの名称なのか同定することも難しく、しっかり剖出した上で走行を確かめて、初めて同定できることが多かった。このように、教科書をただ眺めて記憶するだけでは、外科手術などで対応できなくなってしまうことを実感した。また、自分の手で解剖し、自分の目で観察できたことでより深い知識と理解を得ることができたように感じた。実習最終日に花束を買いに行った。お店で受け取った花束はなぜか重く感じ、約1カ月半向き合ってきた一人の人に対してのたくさんの想いや感謝が詰まっているように感じた。
解剖実習全体を通して先生方が実習開始前から仰っていた、ご遺体が先生であるという言葉を身に染みて感じた。実習を通して学習することで解剖学の楽しさに触れ、当初の不安を忘れ学習に一心に取り組み実習を終えることができた。医学生でなくてはできない貴重な機会であったことを強く認識し、実習を終えて残った後悔を踏み台に今後の勉強に活かしたい。また、ご献体くださった方々の想いに応え立派な医者になるために精進し続けなくてはならないと感じた。
最後に、ご献体いただいたご本人及びご家族の尊い意志に対して尊敬の念を示し、感謝申し上げます。また、実習を支えてくださった技術職員の方、実習をサポートしてくださった先生方、解剖学を学ぶ機会を与えてくださったすべての方へ心から御礼申し上げます。
二村祥太
解剖実習を終えて、人体の生物としての特異性と構造の精密さに感動を覚えた。表層から浅層へ、浅層から深層へと解剖を進めていくたびに複雑な構造が現れてきたのは今でも忘れられない。
解剖実習が始まってしばらくは解剖実習室での非現実的な雰囲気によって思考がまとまらなかったのを覚えている。ご遺体とほとんど同じ構造が自分の中にもあるということを単に言葉としてではなく、身をもって体感し始めたのは実習期間の中頃になってからであった。教科書の文字と絵からだけでは得られない実際の組織の大きさ、触感、強度、色あいといった情報は、今後の座学で病気を学んでいく上でとてつもない理解の助けになるだろうと思った。たとえば、「血管を縫い合わせる」というのはよく耳にする言葉であるが、文面としては理解できても、実際の様子は想像もつかないというのがこれまでであった。しかし、解剖実習で実際の血管を見たり触れたりすることで、身をもって血管の縫合は精密な動作を要求されることは想像に容易かった。
また全身の解剖の中でも、心臓の解剖は非常に興味深いものであった。心臓の物理的な構造の精密さのみならず刺激伝導系といった生理的なシステムの両方が協調することが非常に興味深かった。興味深かった構造はまだある。それは内耳の構造である。内耳は半規管の3つのループをもち、それらは互いに垂直になるように配置されている、その機能として、各ループは角加速度を感知するとのことである。これらのことから、半規管の各ループはそれぞれの軸方向の角加速度を感知し、3次元的な角加速度を感知するのに必要十分な構造なのではないか?と考えたりするのが非常に楽しかった。それに加えて、前庭の構造は直線加速度を感知するということから、半規管と前庭器官は工学におけるジャイロセンサーと加速度センサーの役割をそれぞれ持っている。工学的に必要な装置がジャイロセンサーと加速度センサーに分かれているように人体のセンサーも同じく分かれている。つまり機能と構造の分け方が工学と生物学で同じということにも感動を覚えた。これらの構造や仕組みが長い時間をかけて進化してきたことに感動し、解剖実習期間に設けられていた講義で学んだ発生学にも興味を持つようになり、発生の過程を知ることは解剖学的な構造を理解する助けとなった。
およそ6週間の解剖実習で学んだのは、座学としての解剖学という範囲にとどまることなく、解剖班での共同作業、ご献体くださった方やそのご遺族との向き合い方といった座学以外の要素も大きく、そのどれもが医師として生きていくために必要な要素であったと今になってではあるがしみじみと感じており、この解剖実習が自分を大きく成長させてくれたという実感を手にしている。改めてご献体くださった方、そのご遺族、教員の方々、解剖実習のための準備を行なってくださった技術職員の方々、そして班員に感謝を申しあげたい。
服部想惟
6週間の解剖実習を振り返ると、人体の構造を実際に観察することで多くの学びを得られた一方で、「死」についても考えさせられた。
解剖実習初日、ご遺体を包んでいる白い布を開けて実際にご献体くださった方を目にすると、解剖することに対する不安と恐怖でなかなかメスを入れられなかったのを覚えている。一度メスを入れると解剖実習が始まったことを実感し、身が引き締まるような思いがした。
ご遺体はご献体くださった故人とそのご家族が私たちの学習のためにご協力いただいたものである。そのため私たちはご献体いただいた故人に満足していただけるようにご遺体からできる限り多くのことを学ぶ義務があるという考えが常にあった。当然、故人は満足したからといって褒めてくれたりすることはない。だからこそ、故人に間違いなく「献体した甲斐があった」と思ってもらえるよう、解剖実習期間中は毎日実習があって時間的にも体力的にもとても過酷だったが日々の予習復習は決して欠かさずに行った。それでも、教科書やアトラスにある二次元の図と実際にご遺体で見る構造は見え方が全く異なり混乱することもあった。また血管や神経の走行、および臓器などについてアトラスなどで予習していっても、実際のご遺体とは異なることもしばしばあった。このような経験は座学だけでは絶対にできず実際に人体解剖をしたからこそ得られたものだと思う。
納棺式の日、雨が降りしきる中、初めて花束を買いに行った。その花束は精巧にできている人体の構造のように非常に美しいものだった。納棺式でのご献体くださった方とのお別れの時には、6週間にわたって私たちの「先生」として非常に多くのことを教えてくださった故人に対する感謝の気持ちで一杯だった。この感謝の気持ちを今後も決して忘れないようにしたい。
この6週間、私は予習・解剖実習・復習のサイクルで日々精一杯学習したつもりだが、ヒトの構造で覚えるべきことはあまりにも膨大で実習期間中には理解しきれなかったことも山ほど残っている。それだけヒトの構造は繊細でかつ緻密にできているということがわかった。解剖実習を通して学んだことは今後の医学の学習においても非常に重要なことであると考える。6週間に及ぶ解剖実習を通して得たかけがえのない知識や経験を胸に刻み、将来立派な医師になれるよう今後の医学の学習に励みたい。
最後に私たちの解剖実習をサポートしてくださった先生方や先輩方、ご遺体を準備してくださった技術職員の方々、困った時に助けてくれた班員、そしてなにより私たちの解剖実習のために自らのお身体を提供してくださった故人とそのご家族に感謝を伝えたい。
宮川凜胡
「解剖学の答えはご遺体の中にあります」
先生が解剖学の実習を通して繰り返し仰っていた言葉だ。この言葉を体感できるようになったことが、解剖実習を終えて最大の成果であると感じている。解剖実習は医学生として初めて人体を相手にする機会で、初めての正解がわからない実習だった。初めのころは人体構造の名称がわからず、剖出の手順を追う上で教科書や図解本を参照しないと解剖は学べないと思い込んでいた。一方で、何度も人体解剖を担当されてきたはずの解剖学の先生方が、今回のご遺体にも熱中している様子を見て、ご遺体ひとりひとりにそんなに違いがあるものなのかと、自分の担当だけでなく、解剖実習室全体のご遺体に目を向けられるようになった。筋肉や脂肪のつき方や色形に加え、血管や神経の走行までも異なり、それぞれの小さな違いに対応するようにその他の配置がずれており、個々の体において機能を維持するためにバランスを保った構造ができ上がっている様子に大変驚いた。また、そのような違いがあってもなお、ヒトとして同じように体が機能しているのだということに感銘を覚えた。
さらに、解剖実習を通して、知識面、精神面でも大きく成長できた。実習では朝から夕方まで解剖実習室で剖出し、夜には予習や試験勉強。これまでのどんな時よりも、生活のなかで医学の勉強に費やす時間が長くなり、それでも足らないと時間があれば教科書を開いていた。ご遺体を無駄にせずしっかり学べるように、班員に迷惑をかけないようにと追い込む半ば、疲労からか発熱した日があった。患者として内科に罹り、受けた診断は急性扁桃炎だった。それまでにも罹患したことはあったが、扁桃を剖出した後に聞くと、見え方が変わっていた。体のどこでなにが起こっているのか想像できることが嬉しく、学習してきたことが報われたように感じ、私が選んだ生涯の専門分野なのだと、ようやく心から自覚できた。
このように、解剖実習で実際のご遺体すなわち人の体を剖出する意義は基礎知識を得ることだけではなく、その上に求められている。実際のヒトを前に、教科書のように明確な答えがない中、何を正しいこととして追い求めるべきか、責任感、倫理観を育むことができたと思う。この6週間は私を含め多くの医学生にとって、医師になる将来を見据える上で、欠かせないターニングポイントとなると確信している。
最後に献体することを決断されたご本人とご家族の皆様に加え、お世話になった先生方、技術職員のみなさまに心からの感謝を申し上げたい。解剖実習中に先生方と直接お話をさせていただく機会が多くあったおかげで、様々なことを考え、広い学びに繋げられたと確信している。このような機会を与えてくださった全ての方への感謝を忘れずに、これからの生活では医学生としての責任感を忘れずに一層精進していきたい。
安本理穂子
およそ1カ月間の解剖実習を終え、実家に帰ると母に言われた一言。「なんだか顔つきが変わったね」と。一日中解剖漬け、勉強漬けの、今思い返してもハードな毎日を通して、医学生としての意識が確かに変わったことを自分でも感じている。
私は医学生になった時から、最も懸念していたのが解剖実習だった。医療ドラマを見ている時、手術のシーンは怖くて見ることができなかったし、薬理学の実習で蛙を扱った時も平気な顔をしている同期達に驚愕した。人体の解剖なんて自分には絶対にできない、どうして医学類に入ってしまったのだろう、と、何度母に泣きついただろう。解剖実習初日が迫ってくるにつれ、気が重くなるばかりだった。しかし、迎えた解剖実習初日、ご遺体と対面した私は、もう後戻りできないと自分の中で覚悟が決まったのを感じた。人体解剖は怖くて泣きたかったし逃げたかったけれど、ご遺体と対面した時、その行為はご献体頂いた故人とそのご家族に対して失礼だと直感的に思った。このご遺体に誠意と感謝を持って解剖実習に臨んでいかなければならない、そう覚悟を決めて解剖実習が始まった。
解剖実習期間は、身体的にも心理的にも想像以上に厳しい毎日だった。解剖実習の予習・復習や試験勉強に追われ、その上1時限のために早く起きなければならず、疲労が溜まっていくばかりだった。そのような日々でも自分を奮い立たせることができたのは、間違いなく班員のおかげだと思っている。剖出がうまくいかないときはフォローしあい、疲労が溜まっているときは声を掛け合い、常に助け合って実習が進んだ。試問や試験の直前はお互いが情報共有して学習内容を教え合い、全員で乗り越えようとモチベーションを高めてくれた。この班でなければ、厳しい1カ月間を乗り越えることはできなかった。解剖班の3人に心から感謝している。解剖実習を振り返ると、鮮明に記憶が蘇ってくる。解剖実習室特有のあの匂い、ご遺体に触れた時の感触、初めて自力で神経を剖出できた時の興奮、人体の精巧な作りを目の当たりにした時の感動。その一つ一つを五感で覚えている。これらの記憶は、私が将来どのような道に進んでもかけがえのないものであり、忘れることはできないだろう。解剖実習を通して、医学生としての自覚が確実に高まった。これからの姿勢を持って、ご遺体やそのご家族に誠意と感謝を示していきたいと思う。
最後に、献体くださった方とそのご家族、ご指導いただいた先生方、解剖実習に関わった全ての方々に感謝申し上げます。本当にありがとうございました。この経験を最大限に活かし、自分が理想とする医師の姿に近づけるよう邁進していきます。
解剖実習を終えて(令和5年度)
医学群 医学類 2年
小林桜子
医師になろうと決意し、総合学域群から医学類へと移行してから1カ月ほど経った頃、解剖実習は始まった。医師になる上で必ず通る道であるこの実習を、どこか他人事のように、実感なく構えていた私の怠慢な心持ちは、実習室に横たえられたご遺体を目にして緊張へと一変した。人の命に向き合う実習なのだと、ビニールと布で包まれたご遺体を前に理解した。他の学生たちも同じように感じていたのだろう、実習前の説明を受ける室内には張り詰めるような静寂があったことを覚えている。
実際の体の構造について解剖実習なしに理解しきることは不可能であると、実習を始めてよく分かった。次の日の予習をなおざりにはしたくなかったし、何しろ真摯に取り組むことは私たちの義務であるのだから、実習書やアトラスを参考に剖出の手順や様子をイメージしてから実習に臨んではいたのだが、想像通りに剖出が進むことはほとんどなかった。剖出すること自体がそもそも難しく、見つけ出した組織が何であるのか同定するのにも時間がかかる。そして多くの組織や器官は、教科書に載っている通りの様子をしていなかった。筋肉の厚みや脂肪の量、血管の走行さえ異なることに驚き、また、私が担当させていただいたご遺体には何箇所かの出血や動脈瘤などがあった。腹臥位にしたとき、腰部に床ずれを見つけてはっとした。亡くなる前のご様子をつい思い浮かべた。寝たきりでいらしたのだろうか。お辛かっただろうか。そのようなことが頭をよぎった。そして、僭越ながら、自分より遥かに長い年月を生きてこられたご生涯と、その最後を献体によって終わることを決断されたご遺志の尊さに思いを馳せた。
解剖実習において、実際に人の体に触れ、その姿を知るということには、生物学的・医学的な理解を深めるという意味はもちろんのこと、その人ひとりに真剣に向き合うことの重要性を知るという意味もあるように思われる。人それぞれに体の中がこんなにも違っているのだから、治療の仕方も一意には定まらない。目の前の一人に対して最善を尽くすためには、医師はその人について心身ともによく理解し、本当に合った治療を模索しなければならないのだと思った。
実習最後の日、納棺を終えた実習室は再びしんと静まっていたが、初日のような緊張感はなく、むしろ穏やかな達成感が満ちていた。私自身も、余裕とは言えない6週間であったのに名残惜しささえ感じるのが不思議だった。号令に合わせ、最後の黙祷をする。目を閉じれば、ご遺体の安らかなお顔が思い浮かんだ。花束と小さなメッセージカードでは到底伝えきれないくらいの感謝が胸に溢れた。医師になるということ、自分ではない誰かの人生に対して責任を持つということの意味を、改めて深く考えさせられた実習だった。
最後になりますが、このような本当に貴重な経験をさせてくださった故人とご遺族の方々、そして支えてくださった先生方に、心より感謝申し上げます。この経験を忘れず、これからも学んで参ります。
近藤美保
実習初日、死装束に包まれ静かに眠る曽祖母を前にした、あのときのやるせなさが鮮明に甦った。安らかな顔をされた目の前のご遺体は、どのような人生を歩まれたのだろうかと思いを馳せていた。これから、人生を全うされその死を悼まれたであろう、一人の人間と向き合い、身体の内部を拝見するという事実を強く意識した瞬間であった。それを意識すればするほど、身体を侵してしまって申し訳ないと感じ、本当に良いのだろうかと自問自答した。メスを持つ手が竦んだあの緊張感と、共に感じた責任感はいつまでも忘れたくない。
思えば、これまでの人生で誰かのために勉学に励んだことがなかった。受験や医学基礎の勉強も、興味や目標が動機となり、自然にやりたいこととして自分の中に位置していた。以前から、ご献体いただいた方や御家族が、献体してよかった、解剖実習は有意義で不可欠なものであると心から思っていただくため、学ぶことに対して責任と義務を強く感じていた。実習では、周りの音が聞こえない程集中し、休憩時間も惜しんで5時間以上に渡り、手と頭を動かし続けた。家に帰ると全身にどっと疲れを感じたが、その日のまとめと復習、予習が続いた。朝起きてから眠りにつくまで、いっときも解剖が頭から離れることがなく、常に責任感や義務感、使命感に駆られていた。初めて誰かのために勉強した経験であり、間違いなく、人生で最も勉強した6週間であった。それでも、剖出することができなかった構造は残り、最終日にはもう少し時間が欲しい、学びきれず申し訳ないと悔しさや後悔を感じた。恐らく、医学という学問はどれだけ勉強しても、どれだけ研究が進んでも、その全てを知ることは不可能なのだろう。だからこそ、こんなにも面白い学問は他にないように思う。多くの人の想いや願いを受け、患者のために学び続けることが、医学生、いずれは医師としての使命であると気づくことができた。
実習では、人体の精巧さだけでなく、教科書の説明と異なる構造に気づかされ、その個人差や変異に幾度も驚かされた。今まで薬や治療効果に個人差があることを知識としては知っていたが、実習を通してその意味を体感的に理解することができた。また、医師となったときに、病気を見るのではなく、目の前の患者個人を診ることの大切さも学んだ。もちろん、教科書や論文で病気について深く知り、技術を得ることは大切であり、多大な努力と時間も要するだろう。しかしどれだけ学んでも、患者個人を見つめないと病気の進行や治療効果はわからない。その患者が何に対して痛みや苦しみを感じているのかも、目の前の患者のみが教えてくれることである。実習では「目の前のご献体いただいた方が先生です」と言われたが、今後はときに教科書や治療法などをも疑いながら、目の前の患者から学ぶ姿勢を心に留め続けたい。そうして、患者の痛みや苦しみに寄り添える医師になりたいと願う。
実習を終えた今は、心からの感謝を感じている。ご献体いただいた方と御家族、先生方、班員、友人、先輩方、家族など多くの方々の支えのもと、このような濃密な日々から大きな学びと気づきを得ることができた。これから先、ご献体いただいた方と御家族の崇高な意志を自分の中で生かし続け、良き医師になるための行動に感謝を示し続けていくことをここに誓いたい。
最後になりましたが、このような貴重な経験をさせていただいたことに、心からの感謝を申し上げます。
齋藤圭祐
「怖い」最初に解剖実習室に入り、抱いた感想である。
胸元に白菊が置かれ、ビニールに包まれたご遺体が並んでいた。その光景に恐怖すると同時に、この実習が医師になる上でまたとない貴重な機会であることを実感させられた。ガイダンスで学類長のお話をお聞きして、入室と同時に崩れた覚悟が何とか形を取り戻してきた。元々医学や生物学への興味は強く、その忘れかけていた好奇心が蘇ってきた。
ご献体が無償で行われていることでこの実習が成り立っているというお話を改めていただいた。それは私が良い医者になることを期待している人がいると気づかせるものであった。
そんな気構えでご遺体と対面した時の、尊敬と感謝と、その対象は既にお亡くなりになり、そして今からメスを入れるという、あのなんとも言えない物悲しく申し訳ない心持ちは生涯忘れることはないと思われる。
解剖実習を進めて、新しい知識を沢山得た。
身体がどんな素材でどのように作られているか。それは、実際に触って、引っ張って、切って、初めてわかるものであった。想像と違うものがたくさんあった。それらを知ることが臨床の勉強に大いに役立つことが予感されるのに時間はかからなかった。私は医療マンガをよく読む。どのマンガでも専門的な説明を挟むシーンがたくさんある。まだ何を言っているかさっぱり分からない。しかし、解剖実習がある程度進んだ辺りから、読んでいる時のイメージに変化を感じた。相変わらず、なんで今この主人公はそのなんちゃら値を重要視しているのかはよく分からない。だが、どこの何が悪いのか、どこに出血しているのか、映像としてイメージできるようになっていた。今後の臨床の学びが楽しみになるばかりだった。
実習を進めるにしたがって、感じた事はまだある。それは、人体がとんでもなくよくできているということである。結合組織は密につまり、なかなか切れない。腱と骨はいくら引っ張っても取れない。臓器は無駄なスペースが全くなく、手足や目の筋肉は細かかった。そして、うんざりするほど沢山の血管と神経が網目のように全てを栄養、制御している。無駄な物が一つもないという感じであった。
感じたことはまだある。人それぞれ、身体が全然違うという点である。男女の差や歳の差だけではない。一人一人違ったのである。実習後半、閉鎖動脈が見つからず手をこまねいていた。結局、下腹壁動脈からの枝が代替をしていた。このような、人によって異なる破格が無数にあった。この辺にあるから何何神経と断定は出来ず、何筋に投射してるから何神経と決めるため、知識がますます重要であった。紙の上ではなかなか覚えられないそれらの知識も、実際に見て確認していくことで、頭に溶け込んでいった。
実習最終日。剖出で姿は変わってしまったが、お棺に丁寧に納め、最後は白菊の花束と共に綺麗にお送りした。なんだかもう知らない人のような感じがせず、寂しい気持ちだった。故人と御家族は、私たちが好奇心を満たすためにご献体頂いたのではないと存じ上げる。私達が将来治療する患者達のためである。この学部に来た以上は、その期待に答えることが責務であると改めて心得る実習であった。貴重な機会を与えてくださった、故人と御家族に改めて尊敬と感謝の意を表したい。
本当にありがとうございました。精進します。
左中彩恵
今日納棺の日を迎え、解剖実習が終わった。緊張と恐怖心からそわそわしながら解剖実習室に入った日の事を思うと本当にあっという間で密度の濃い日々だった。たった6週間という短い期間だったが、6週間前と今とでは私の見える世界は大きく変わったように思う。実習前まではアトラスを開いても、血管や神経が無秩序に張り巡らされているようにしか見えず、ただただ難しい図だった。しかし今、何度もめくり返してしわくちゃになったアトラスを開くと心臓が拍動し血液が身体へと巡っていく様子が鮮明に浮かんでくる。そして一つ一つの血管、神経、臓器が意味を持ち互いに協調しあう姿に、どうしてこんな構造が自然のなかで生み出されたのだろうと不思議と感動で一杯だ。
解剖実習において私が最も大切にしていたことは、ご遺体に対して正直である事だ。受験勉強のような教科書の丸暗記ばかりしてきた私ははじめ、教科書と異なる血管の走行や臓器の形に戸惑ってばかりだった。しかし実習を進めていくうちに、私にとっての「先生」は目の前のご遺体ただ一人であり自分の眼でみて感じたことこそが真実なのだと気づかされた。そして教科書の情報ではなくご遺体と向き合う時間をできる限り長く持ち、ご遺体とまっすぐに向き合おうと決めた。しかしこれを6週間という短い期間で実践することは、葛藤やもどかしさの連続であった。ごまかしなく向き合おうとすればするほど、作業に遅れが生じてしまう。私の遅れを補い、手伝ってくれた班員の皆の存在は本当にありがたく心の支えとなった。もちろん今でも、教科書で疑問が湧くたびに実習の時にもっとちゃんと見ておけばよかったと後悔したり、剖出がうまくいかなかった部分や解決しきれなかった疑問へのもやもやした気持ちはいくつも存在する。私はこの気持ちを忘れずに持っておこうと思う。今感じている疑問や後悔も持ち続けて今後の授業や実習に臨むでいれば、いつか全てがつながる日がくる気がする。
最後に、実習を支えてくださった先生方や6週間共に闘った班の仲間、そして何よりもたくさんの学びを与えてくださったご献体いただいた方に感謝の気持ちを伝えたい。たとえ医師になるためとはいえ自分に解剖を行う権利などあるのだろうか、という葛藤はご遺体と対面し黙祷をささげる度に頭をよぎった。しかし、今はその葛藤は責任感に代わり私の中に刻まれている。きっとご献体いただいた方やそのご家族は実習での学びを糧に将来たくさんの命を救って欲しいという思いでお身体をささげてくださったのだと思う。これまでとは違い、私には医師として命を救う「責任」が生まれたのだと今ひしひしと感じている。この責任感を胸に、今後も努力を重ねていきたい。
須藤永遠
私は実技が苦手だ。昔から座学の方が得意で、実習中に用語を覚えられるほど器用ではない。だから、この実習は入学して早々から私の中に大きな不安としてあった。
私たちの班は、中間試問を終えるまで剖出の速度が遅かった。さらに問題であったのは、剖出が丁寧であるとか、剖出部位への理解を深めているとかではなく、単純な手技のレベルの低さに起因するものであったことだ。試問でこのことを指摘され、私なりに解決策を考えてみた。それ以前、私たちの班は、教員の方々に質問することに関して消極的であった。だが、実習に対するモチベーションはむしろ高い方であったと思う。ただ、手引きがある以上、これを読めば自己解決できるはずだと思っていたからだろう。そこで、教員の方々に積極的にアプローチすることにした。手技のレベルが低いことは、剖出部位に応じて選択すべきストラテジーを知らないだけで、これを伺えば剖出速度は向上すると考えたからだ。
このようにして、私たちの班は中間試問をきっかけに、単純に剖出の速度が向上したと言うだけではなく、剖出、延いてはこの解剖実習への向き合い方が大きく変化したと思う。そして、積極的に教員の方々にアプローチする中で、1人の先生に言われた言葉は不思議と胸に残り、今になって理解した。
「剖出できない、というのはご遺体に対するリスペクトが足りないんだよ」
決して責めることなく、諭すように伝えられたこの言葉を、とにかく剖出速度を向上させようと躍起になっていた当時の私は聞き流していた。リスペクトを払う時間を作るためには剖出を急がないといけない、と真逆の考えであったからだ。だが、心構えが変わりつつある中で新たな視点に立てた時、初めてこの言葉を理解した。
リスペクトとは、ご献体なさった故人の遺志を汲むことである。では、その遺志とは何であったのか。それはまさに医学の発展であろう。リスペクトを持つだけの心の余裕を得られた時、私は考えが変わった。
「もっと剖出しないと」病に倒れた故人の構造は正常とは言えないものもあった。だが、解剖実習で見た構造は今も深く目に焼き付いている。ご献体なさった方が先生となって、私に教えて下さっていたのだ。このことに気付いた私は、ようやく、ご献体なさった方を「先生」と呼ぶ意味、何故カリキュラム上では「勉強」する時間が少ないように見えるのかを理解できた。
このことに気付けた頃にはご献体なさった方の納棺を明日に控えていた。遅すぎたかもしれない。だが、最後に手を合わせた時に私の中にあった思いは、今のこの思いは、間違いなくあの頃とは違う。手枷だと思っていたものは、私が勝手にハンデにしていただけで、大きな成長のチャンスだった。ようやくそう思えるほど、私は解剖実習で前進できた。
最後に、ご献体いただいた故人とそのご家族の尊い御意思に感謝し、故人のご冥福をお祈り申し上げます。
相馬亜玲
解剖実習を終えて、私は命について考えさせられることとなった。私は、解剖実習初日のネル布に包まれ花が添えられたご遺体がずらりと並ぶ光景が忘れられない。目に見える形で人の死を感じたのは幼稚園児の時の祖母のお葬式以来であった。ネル布を開くと、亡くなる前は紛れもなく私たちと同じように歩いたり、お話したり、ご飯を食べ、生きていた人が固く冷たくなった状態で横たわっていた。亡くなった人に触れるのはそれが初めてであった。金属、氷など固いもの、冷たいものは身の回りにたくさんあるが、そのどれとも違った心に重くのしかかるような感触であった。自分を含め人間はいつか死ぬということ、死んだら自分の体はどのようになるのかを今まで以上にはっきりと認識した。初めてご遺体にメスを入れたときは、その痛みを自分の体で想像してしまい解剖を進めるのが大変だった。さらに、ご献体いただいている以上失敗は許されないと過剰に自分に重圧をかけてしまい、予定から剖出が遅れてしまいそうになった。そのときに、一人の先生から「失敗からも学ばせてもらう」というアドバイスを頂き、少し肩の力が抜けた。それからは、実習書や先生の指示通りに剖出していき、もし細心の注意を払っていながらも手順を誤ることがあったら、そこからも学び、修正していこうという考えで実習に臨むことができた。睡眠時間を削ってまでも予習を頑張ったおかげか、幸いにも大きなミスなく終えることができてほっとしている。実際、ご遺体から非常に多くのことを学ばせていただいた。教科書だけではわからなかった、立体構造やそれぞれの位置関係を見ることができ、重さや長さを測ることができた。実習の終わりが近づくにつれて、予定の剖出が終わってネル布を閉じた状態で勉強をしている班が増えていく中、私たちの班はギリギリまでネル布を開いてご遺体から勉強させてもらった。隅々まで剖出して学ばせてもらったご遺体は解剖前とは全く変わり果てていることを、棺に入れる時に思い出した。その時、心からの感謝の気持ちが込み上げてくると同時に、今更ながらメスなどで解剖できるほど人体はもろいのだなと実感した。
私は将来医師を目指している上に、解剖実習でご遺体から非常に多くのことを学ばせてもらったのにも関わらず、自分や自分の大切な人の遺体が解剖されることにまだ抵抗を感じてしまっている。抵抗を感じながらも将来の医学の発展の為にご献体下さった故人とその遺族の方々には感謝してもしきれない。
中西優奈
解剖実習では、本当にたくさんの学びを得ることができた。教科書や実習の手引きで予習をして臨んだつもりが、実際にご遺体で確認しようとすると分からなくなってしまう。先生方や友人の力を借りながらなんとか解剖を進め、その日学んだことを忘れないうちに記録し、また翌日に備えて予習を始める。実習期間中は、そんな日々の繰り返しだった。教科書や手引きの情報が、いざ現場で実践しようとしてもなかなか適用されないことに、驚きと困惑と感動を隠せない毎日だった。
机に広げた教科書や資料から学ぶことは、当然基礎的な知識を得る上で非常に大切なことである。だが、それだけでは足りないということを、実習を通して痛感した。教科書には人体の平均的な構造について書かれている一方、私たちが実習室で向き合っているのは、そして今後患者として向き合うことになるのは、誰1人として全く同じ構造を持つことのない人である。1人のご遺体から贅沢に学びを得ることができる実習の環境に感謝しつつ、実際に手を動かすことで臓器や組織の特徴をより鮮明に理解できることを実感した。臓器や組織がいかに複雑に関連し合っているかを、この目で見て、手で触れて、肌で感じることができた。実習を通じて得たこのような視点は、将来医師になる者として、患者に寄り添い適切な医療を提供するために重要なものとなるだろう。
そして迎えた解剖実習最終日、ついにご遺体を納棺する日。これまでどんなことを学んできたか、何かやり残していることはないか。実習期間の出来事を思い返していると、ついに目の前に棺が運ばれてきた。これで解剖実習も終わるのだと感慨に浸りつつ、棺の蓋を開けると、そこには1つの帽子が収められていた。
その帽子は、なんてことない、ごく普通の、黒いものだった。自分が被るには、やや小さいだろうか。触り心地は柔らかく、ぬくもりすら感じた。目の前に横たわるご献体いただいた方は、この帽子をよく被って生活していたのだろうか。それか、大切なご家族が使っていた帽子なのだろうか。この帽子は、きっとこの方にとってお気に入りの、思い出のつまったものであったことだろう。
この瞬間、私は初めて、ご献体いただいた方の人生に触れたような心地がした。ただ臓器や組織について学んだ事項だけでなく、実習の背後にある人々の物語や想いまで胸に流れ込んでくるようだった。解剖実習で私たちが向き合っていたのはただの「人間」ではなく、生きていた人々であったことを改めて感じた。その尊い重みを受け止め、心から感謝の念を抱きながら、実習最後の黙祷を捧げた。
最後に、ご献体いただいた方とご遺族の方々をはじめとし、真摯にご指導くださった先生方、共に励ましあいながら実習を乗り越えてくれた友人、そして解剖実習を支えてくださった全ての方々に、この場を借りて感謝申し上げます。解剖実習という貴重な機会をくださったこと、本当にありがとうございました。
馬部遥香
解剖実習の初日、私は実習室に入るまで解剖が始まるという実感が湧かなかった。だが、実習室に入った途端、菊の花が添えられたご遺体が並ぶのを見て、身の引き締まる思いがした。また、解剖が始まり、ご遺体にメスを入れた時、一度メスを入れてしまった以上安易な気持ちで後戻りはできないのだと思い、6週間誠意をもって貪欲に学ぼうという気持ちになった。
日々予習と復習に追われてハードではあったが、人体の構造や機能に興味をもって医学類に入った私にとって、解剖期間中は普段なら得られないような学びの連続で、毎日とても充実していた。解剖が始まるまで、筋肉の収縮のしくみや神経伝達について授業で学ぶことはあっても、筋肉や神経が体内でどのようになっているのかの具体的なイメージは掴めていなかった。しかし、実際に解剖してみると、初めは神経や血管、結合組織を見分けることができなかったり、筋肉同士の境目がわからなかったりと、どれがどの構造物なのかわからなかったが、慣れてくると、筋肉がどのように骨に付着しているかや、神経がどの筋肉を支配しているかということに着目できるようになった。そして、どの神経と、それに支配されるどの筋肉が働いて腕や脚を動かすことができるのかということを理解することができた。実際に自分の手で剖出し、自分の目で見たことで、解剖学の知識が確かなイメージとして定着したように思う。
解剖を進める中で印象に残った場面はいくつもあるが、その中でも奇静脈の剖出が心に残っている。私の班のご遺体では、奇静脈が正中よりも左にあり、教科書やアトラスに載っているものとは異なる形が見られた。私たちが実習で扱わせていただいているのは模型などではなく、生きていた人であることを再確認するとともに、人体にはそれぞれ個人差があるということを実感し、人体の構造のおもしろさを感じた。また、この経験は、最終日に先生がおしゃっていたことでもあるが、将来私たちが病院実習でお世話になったり、医師として出会ったりする患者さんはひとりひとり異なっていて、ひとりひとりに向き合わなくてはいけないのだということを学ぶきっかけとなった。
納棺の日に、ご遺族が用意された棺や、内容は見ていないが棺の中にご遺族から故人に宛てたお手紙が入っているのを見て、故人はご遺族にとって大切な家族で、一人の人として人生を送った方なのだと感じた。その故人の医学の発展を願う気持ちと、承諾してくださったご遺族の思いに応えられるように、良い医師になるべくこれからも医学の勉強に励もうと決意した。
最後に、私たちの学びのためにご献体くださった故人とそのご家族に感謝申し上げます。故人の思いを忘れず、将来医学に貢献できるよう励んで参ります。ありがとうございました。