解剖実習を終えて(令和3年度)

医学群 医学類 2

石橋 凌

 

解剖実習は医学生にとって避けては通れないものであり、その実習を乗り越えてこそ医学生になったともいえるだろう。

実習が始まった初日、身内ではない亡くなられた方を初めて目の当たりにした。周りの生徒達にはいつも通りふるまっていたが、内心では緊張が収まらず、メスを手にしてご遺体に刃を入れたときには感じたことのない複雑な感情が私の心を覆った。それは罪悪感なのか、恐怖なのか、はたまたそれらが混ざったものなのか今でもはっきりとは分からない。しかし、そのような感情も次第に薄れ、ご身体を提供してくださった方のためにも解剖学を学ばせていただこうという思いが大きくなった。そして、実習も進み病変があると思われる部位の観察となったとき、私はご献体くださった方の晩年の痛みや苦しみが身に染みて伝わった。亡くなられた原因が私の今は亡き祖父と同じであったこともあり、特にそれを深く感じた。触れてみると明らかに感触が異なっていた病変、所々でみられた出血、腫れ上がったリンパ節はご献体くださった方が病と闘っていたということを私に痛いほど教えてくださった。「私の祖父もそうだったのだろうか」と幼い頃には知る由もなかったことに思いを馳せた。

 そんなこんなで6週間におよぶ解剖実習を乗り越え、やっと医学生になれたのだと実感した。私は優秀という言葉とは程遠い存在であり、本実習に関しても100%理解できたなんて口が裂けてもいうことができない。そんな私ができることといえばご献体くださった方への感謝を忘れず、解剖実習という一生に一度の経験を糧に学問に励むことだ。

この実習の間は、6週間という期間がとても長く感じたが、この感想文を書いている今ではあっという間に過ぎ去っていったと感じている。実習を終えて部屋に帰り、復習と次の日の実習に向けた予習をして布団に入る生活の繰り返し。本実習のような長期にわたる実習を経験したことのなかった自分にとっては、つらいと感じた時もあった。その分、実習を終えたときには、感じたことのない充実感を得ることができた。この充実感は実習に携わる先生方や技術職員の方々、そしてなによりご献体くださった方がいらしてこそ得られたものであり、この場で大変恐縮だが心から感謝を申し上げたい。解剖実習に携わられた方々へ恩を返すためにも、この解剖実習で得た知識や経験のない感情を胸に、日々努力を重ねていこうと思う。

 

 

宇田川惇

 

解剖実習が始まる直前まで、「一切学びに関しての妥協をしないので、医学を学ばせてほしい」と願い続けた日々のことを振り返っていた。後半は特に厳しいとの事であったので、自分の誓いが破られてしまわないか少々心配であった。実習が始まり自分が担当する御遺体と対面したとき、心配は杞憂に変わった。

 

一人の人間を解剖させて頂く責任と重圧は途轍もないものであった。教科書や見聞きしたことで理解した気になっていた人間を、自らの手と目で理解していかなければならなかった。自分が生きた以上の時間を経験した、誰かにとって大切な尊い一人の人間に手を加える以上、妥協してはならないと思いながら日々実習に臨んだ。医学生というよりも一人の人間として責任を果たすために、生活のすべてを御遺体と人体の構造を理解することに投じた。「二度目はない」「御遺族と御献体くださった方を後悔させない」「見るまで、辿るまで信じない」この三つの自戒のおかげで一度たりとも妥協せず御遺体に向き合うことができ、損壊にならないよう丁寧に剖出し人体の深淵を学ばせていただくことができたと思う。

先生が「どのような思いから志願なさったかが分かります」と教卓においてくださっていた会報を、ある日手に取り拝読した。生前に詠まれた短歌、医学生への願い、家族と過ごした日々、生老病死への考えといった会員の方々の生き生きとした随筆が掲載されていた。中には「傷を受けて満身創痍の身では役に立てないのではないか、そのようなことがないように願う」と不安を投稿している方もいらした。「とんでもない、何てことを仰いますか」と心の中で返事をしつつ、会員の方々の謙虚さと偉大な叡智に感銘を受け、時間を忘れ読みふけった。

このような体験に満ちた密度の濃い日々は自分の死生・人間観に変化をもたらした。先哲の中には霊魂はなく生と死は物質の離合集散であると主張したものもいるが、解剖をしていると、どうもそのようには思えなかった。解剖が進み、御遺体の傷や状態がよくわかるにつれ、生前どのような生活を送っていたのか、何を楽しみとしていたのかと思いを馳せることが多くなった。御遺体の全体が、部分や要素に還元されていっても決してそれは単なる物質としてではなく御献体くださった方の遺志や願いとともに目の前に存在するように感じられた。

 

知ることは無知を知ることでもある。そのため、理解が深まる一方で反省の絶えない毎日であった。病理所見を記載する際や先生から問われる度に自分の無知に直面した。「こんなにいろいろなことを知らない若い医学生がこのような実習をしてよいのだろうか」と考えながら予習した日々を思い出す。教科書や先生方を頼りにすべてを見て触れることで学び、御献体くださった方の遺志に応えようとする医学生達の姿勢によって御献体くださった方と御遺族の「献体になることを承諾する」という並々ならぬ偉大な決断に少しでも報いることができていることを願ってやまない。

先生方が繰り返し系統解剖学であることを強調してくださったために、基礎医学の各科目をまとめる形で解剖学を学ぶことができた。基礎医学を全力で学んだことが少し報われた。このため秋学期からの臨床医学への興味も高まり、どのように基礎医学が生かされるのかという期待で胸が膨らんだ。生涯にわたり医学を学んでいくなかで、体内まで見ることができる機会はそうそうない。この実習を通して自分の中に人間の構造の原型を形作ることができた。このイメージが色あせないように、アトラスや画像を参照し、さらに学びを深めていく。

 

自らの遺志で御身体を提供することを決意し、またそれに承諾してくださったご遺族とその偉大な意志、日々実習の準備と知識の教授に尽力してくださった先生方に、この上ない感謝を申し上げます。

 

 

上島歩羽

 

解剖実習が始まるまでの1年と数カ月、医学生として生化学、生理学、病理学、薬理学などの座学を通して人体の仕組みや医学について多くのことを学び、少しは成長してきたように感じていました。しかし、実際にご遺体と対面し、解剖実習を通して人体構造を学ぶ中で多くの課題に直面し、自分の知識不足を酷く痛感しました。同時により一層励み、最大限のことを学びとらせていただくことが、ご献体くださった方々とそのご遺族への私ができる一番のことだと考えました。

ご遺体に毎日黙祷を捧げる際、感謝とご冥福をお祈りするとともに、実習の始まりには、今日も頑張ろうという決意、実習の終わりには、その日の貴重な時間を生かすことができたかという反省をするようにしていました。また実習時間に真剣に取り組むだけでは学びきれないと考え、参考書や3Dモデルを使って日々何時間も予習復習をしていました。時には今まで学んできた分野のレジュメを見返して、人体の構造が機能とどのように関係しているのかを結びつけていったり、手術や検査で行う手技には人体構造学的にどのような意味があるのかを考えたり、ご遺体に対面している時間の何倍もの時間をご遺体から様々なことを学ぶための土台となる勉強に充てました。この6週間は心身ともに負担を強いるものでしたが、それを乗り越えたこと、この期間で集中的に学んだことは今後、医学生として、医師として研鑽を重ねていく姿勢を作る上でも大きな第一歩となったように思います。

実習の締めくくりとなる納棺の日、ある先生に、医療は手術にしても投薬にしても患者さんの体に手を加えることであり、それによる害と治療効果を天秤にかけていく行為であるという話をしていただきました。私たちがこれから患者さんに医療行為という形で手を加える権利と責任が本格的に生まれるのは医師となってからになります。それまでには、知識と経験とそれを培うためのまだ長い年月が必要になってくることと思います。しかし、机上で学ぶだけでは人を診ることもその覚悟もいきなりは身に付けることができません。それらのための学習の一つとなる人体解剖実習は、初めて未熟である私たち医学生に許される、一般の方が行うことのできない特別で特殊な行為だと考えます。ご献体くださった方々とその遺族、準備と指導をしてくださる先生方、本来、一般には許されることのないご遺体に手をつける行為を行う権利を保障する法律など、多くの協力によって実現されたことを自覚し、この貴重な経験で学んだことをこれからも生かし、学習の積み重ねを続けていきます。

最後にご献体くださった方々とご遺族に深い感謝を申し上げます。誠にありがとうございました。

 

 

木村彩香

 

GWが明け漸く初夏の兆しが見えてきた頃、6週間の解剖実習が始まった。6週間は長いようで短く、あっという間に過ぎた。毎日の予習と実習、復習で、体力的に辛い時期もあったが、この解剖実習を最後までやり切ることができたのは、友人や先生方の支えがあったからである。コロナ禍において解剖実習を最後まで行うことができたこと、そして、本実習をサポートしてくださった全ての方々に、心から感謝したい。

 解剖実習を行う中で、私には、身に染みて感じたことがある。それは、膨大で巨大な医学の世界において、自分がいかにちっぽけな存在であるか、ということである。基礎医学の学習を終えた段階でそう感じるのは遅いだろうと自分でも思うが、今までは、授業や教科書で膨大な医学知識に触れても、自分がそれを実用していくイメージがどうしても湧かなかった。しかし、解剖実習では、知識がないと何もできなかった。実習の手を動かすことすら、できなかったのである。実習の手引きはわからない単語ばかりで、アトラスを参照しながら読み進めるのは、非常に時間がかかり、苦しかった。自分の医学知識の浅さを痛感させられた。そして、実習では、サポートしていただいた先生方や6年生の先輩方の持つ膨大な知識量に触れ、圧倒させられた。目の前で先生が解説してくださったときや実習前のショートレクチャーのとき、私は自分の存在の小ささを痛感するだけでなく、先生方の医学に対する謙虚な姿勢に、深い尊敬の念を覚えた。私から見れば解剖の知識のほぼ全域を掴んでいる先生方も、ご遺体の状態について分からないことがあれば、アトラスを参照し、学生と一緒になって考察していた。先生方の医学に対する膨大な知識は、その謙虚な姿勢から生まれるのだと感じた。そして、私は医学生として、巨大な医学の世界のほんの一部しか掴めていないが、これからどんなに知識を身につけても、先生方のように自分の知識に慢心せず、謙虚な姿勢で勉強していこうと心に決めた。

最後に、解剖実習に医学生として参加できたことが、とても恵まれたことであることを忘れてはならないと思う。コロナ禍で世界が一変してしまっても、変わらぬ学習の機会を下さった筑波大学に、そして何よりも、ご献体くださった方やそのご家族の方々のご意志に、心から感謝している。この解剖実習で、医学生として、医学の世界にやっと踏み込んだという感触が湧いた。その世界は思っていたよりもずっと巨大で膨大だったが、それだけ面白く、私の気持ちを強く揺さぶるもので溢れているのだろう。本実習で勉強させていただいたことを忘れずに、これからも巨大な医学の世界を、強い意志と向上心、そして謙虚な姿勢を持って突き進んでいきたい。

 

 

向後綾乃

 

  私は臨床検査技師を養成する学類を卒業したのち、医学類に二年次から学士編入で入学した。以前の学類では解剖は行えず見学のみであったので、解剖実習が始まる前は、いよいよ医学生としての勉強が始まるという期待や高揚感があった一方で、人を解剖することへの恐怖心や不安を感じ、またしっかりと勉強しなければいけないと身が引き締まる思いであった。

解剖実習初日、実習室にはビニールに包まれたご遺体がたくさん横たわっているのを見て、何とも言えない恐ろしさを感じた。ご遺体のビニールを取り初めて拝見した時、これからこの方を解剖するという現実に、この感覚は一生忘れることがないといえるほどの緊張と恐怖を感じた。初日の解剖はおそるおそる進めたが、お顔を拝見することはできなかった。

解剖実習を進めるにつれて徐々に慣れ、うまく剖出ができるようになるとともに、教科書や図譜に記載してある構造などを実際に確認できた時、人体の神秘に感動を覚えた。さらに実習が進んで内容が複雑になってくると、予習量が多いことや、予習したにもかかわらずいざ実習をしようとすると、教科書や図譜の通りでないこともあり、自分が何をすべきかわからなくなるということがあって、自分の無力感やご献体してくださった方への申し訳なさから精神的につらいと思うことも多々あった。解剖は実習時間も長く、さらにストレスから朝早くに目が覚めてしまうこともあり、身体的にもつらかった。土日は予習、復習と試験勉強に追われ、ほぼ開館から閉館まで図書館にこもって勉強した。このように日々を過ごしながらなんとか6週間の実習期間を乗り切ったが、実習ではやはり多くの学びが得られ、ご献体してくださった方への感謝の念が日に日に増していったように思う。

実習最終日に、先生から「患っている病気は同じかもしれないが、患者の体の中で起こっていることは厳密には一人一人違うはずだ」とお話があった。振り返ってみると、剖出や観察が教科書や図譜の通りにいかないこと、ご遺体の脂肪の付き方、臓器の大きさ、血管分岐の変異や破格など、本当に一人一人異なっていて、確かに先生のお話の通りだと理解できた。このことから、医師になった際に病気ではなく、患者個人と向き合うことの大切さや、学び続けることの重要性を実感でき、身の引き締まる思いである。

解剖実習を終えた現在はこれから学習する内容の予習を行っている。以前の学類にいた時の講義などで聞き覚えのある疾患について勉強することもあるが、実習を終えた今では理解度が圧倒的に違うことを実感している。毎日の実習や勉強の中で、着実に知識が身につき成長できていたことを嬉しく思うとともに、医学生としての自覚がわいてきたと感じている。

実習では、「解剖実習での一番の先生は教員ではなく目の前のご献体してくださった方である」とのお話があった。実習を通して、医学的知識を身につけるだけでなく医学生としても成長できたと思うので、本当にご遺体が一番の先生であったと実感するとともに、ご献体してくださった方とご遺族に感謝の気持ちで一杯である。この感謝の気持ちと実習で学んだことを忘れずに、立派な医師になるべく医学生として学び続けたい。

 

 

小林愛歌  

  

解剖実習を終え、6週間の日々を振り返ると、初日のことを鮮明に思い出します。重い曇り空に何とも言えない不安な気持ちを抱えて自宅を出発したこと。普段と空気感の違うロッカールームで、友人と頑張ろうねと声を掛け合ったこと。いざ足を踏み入れた解剖室をつつむ緊張感。そしてご遺体に供えられた白菊を目にし、ご献体くださった方は尊い命を全うされた「人」なのだ、故人の尊い遺志に全力で応えなければならないと強い責任感が生まれたこと。

始まる前は、自分がこれから解剖実習に取り組むという事実は少しも現実味が無く、また6週間という期間は途方もなく長く感じ、乗り切る自信もありませんでした。しかし、いざ始まると驚きと発見に満ちたかけがえのない体験であり、時間はあっという間に過ぎていきました。終わりの時間はいつも17時と定められていましたが、12時過ぎから開始の日にはもの足りなさを感じたほどです。

私が医学の道を志した動機のひとつに、人体の神秘に触れたいという思いがあります。医学を学び始めてから解剖実習ほどその思いを満たす体験はありませんでした。小学生の頃から私を惹きつけてやまない精巧で合理的な人体のしくみ、臓器や器官のつくりを実際に目にし、細部まで追求できることの感動は言葉では表現しがたいものでした。実習で見たもの、得た知識。ご遺体から学ばせていただいた全てのことを鮮明に記憶できたらと何度願ったかわかりません。

剖出の中でもいくつかの場面が特に印象に残っています。そのひとつは前十字靭帯です。靭帯と筋肉と脂肪を慎重に取り除く作業を続け、深部まで現れているのに前十字靭帯が見えずあきらめかけていた時に、先生から膝を曲げて観察をしてみるようご指導いただき、実際に曲げてみたところ初めて前十字靭帯の末端部が露わになったのです。達成感がこみあげてくるのを実感しました。また、下顎管を開く行程もよく覚えています。ノミと木槌を使いこなすのは難しく、繊細さと根気を要し、また、骨片のひと欠けで剖出の成功と失敗が分かれてしまうような作業でした。2時間近くかかり、薄く下顎骨を削り、赤い骨髄の合間から白く光る神経と血管の束が見えたときの感動が忘れられません。

こうして振り返ると、解剖実習が医学を学んでいく上でいかに貴重で重要なものであったかに改めて気づかされます。解剖実習を終えた私たちに先生は「おめでとう」と声をかけて下さいました。この実習が医師になる道の実質的な第一歩であるからだと。これからの学びを解剖実習での学びにつなげ、重ね、深めて、医師になってからも活かせるよう、精進していきたいです。

最後になりましたが、ご献体してくださった方、そのご遺族の方々、そして実習の準備や指導をしてくださった先生方、今回の解剖実習に関わってくださった全ての方々に心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

 

 

高澤秋人

 

実習初日の朝、慰霊塔を訪れた。そこには「医学徒にはげましと大きな期待を寄せて献体された方々の御霊を永遠に讃えてここにいしぶみを築く」と刻まれた碑があり、お花が供えられていた。「今日から解剖実習をさせていただきます、よろしくお願いします」と心の中で言った。

 実習室に入ると、今まで感じたことのない空気だった。しばらくの間、ご遺体の前でただ立ち尽くしていた。実習が進むにつれてその空気感は薄くなっていった。慣れとは恐ろしいものである。ただ、慣れることと、想いが薄れることは全く別のことであると思う。将来医師になっても慣れという言葉で片付けたくない。

 将来は外科医になりたいので、解剖実習はずっと前からやる気に満ちていた。どうにかしてこの経験を将来に活かしたいと思っていた。しかし、手引きの手順通りに血管や神経、筋、臓器などを1つ1つ確認していく作業をどう外科に繋げたらよいのかわからずにいた。そもそも外科の手術が具体的にどのように行われるかを知らなかったことも原因だと考えられる。そこで「どういうところが手術に繋がるんですか?」と、実習中に6年生の先輩に尋ねてみた。「たとえば胃の手術をするときどの血管を結紮すればよいか?」と言われ、なるほどなあと思った。きっと実習のすべての経験が何かしらの形で活きてくれるのだと思う。例えば、人間の構造は教科書通りのものとは限らず個人差があふれているということや、図や写真を見るだけでは掴めない立体的な位置関係を学んだことなどだ。

 実習最終日、最後に先生がお話をした。その話を聞いて、ご献体された方々とそのご遺族の方々の決断はとても勇気の必要なものだったと改めて痛感した。正直言うと、もし私の家族が献体すると言ったら、快諾できる自信がない。その決断ができたのは、私達医学生に大きな期待を寄せているからで、私達はその期待に応えるべく生きる。

 納棺した後、再び慰霊塔を訪れた。碑に刻まれた言葉が初めて目にした時より何倍も心に刺さった。

 解剖実習を終えて、私達医学生がどれほど期待を寄せられている存在なのかを実感した。また、外科医になって多くの人を救いたいという思いが強まった。これからも、その期待に応えるために勉学や生活に励みたい。

 最後に、ご献体された方々、ご遺族の方々、この実習の準備をしてくださったすべての関係者の皆様、そして実習を共にした友人達、本当にありがとうございました。

 

 

藤澤和成

 

新型コロナウイルス感染症による様々な制約がある中、510日から618日にかけて計6週間にわたる解剖実習を無事終えることができた。予習・実習・復習に追われる日々だったが、毎日が驚きと感動の連続であり、非常に密度の濃い時間を過ごすことができた。

解剖実習の初日、実習室に近づくにつれて緊張感が高まっていった。実習室に入ると、そこには数十人のご遺体が静かに眠っていて、厳粛な雰囲気が漂っていた。私はその日から6週間にかけて人体の構造を教えてくださるご遺体の前に立ち、一度深呼吸をした。ご遺体を前にして緊張はしていたものの、一切恐怖を感じることはなかった。むしろ、ご献体くださったご本人およびご家族の方々の尊い意志に対する尊敬の念と、これから始まる精緻な人体への冒険に胸が躍る気持ちで一杯だった。

解剖実習は黙祷に始まり、黙祷に終わった。この時ばかりは感謝の念や敬虔な気持ちで胸が一杯だった。実習を通して人体の構造を見ていく中で、教科書やアトラスに載っているものと実際のご遺体はかなり異なっていることをつくづくと思い知らされた。教科書やアトラスは人体に見られる平均的な構造をまとめたものであり、個人間のわずかな差異は切り捨てられている。また理解しやすいように筋肉や神経・血管等は別々に描かれていることがある。しかし、実際の人体では個人差が必ず存在する上、筋肉や神経・血管等は互いに繋がり合っていて、その他の空所には脂肪や結合組織が隙間無くびっしりと詰まっている。このことから、教科書で学んだ知識は非常に大切だが、それ以上に、実習を通して頭の中にある知識を実物で応用することが必要不可欠であることを実感した。また医師として、単に検査値に基づいてマニュアル通りの治療を行うのではなく、それぞれの患者さんのわずかな違いを見抜きながら適切な治療を施すことが大切だと思った。

解剖実習の最終日、納棺式が行われた。納棺の作業を行っている際に、私は改めてご遺体から人体の構造について隅々まで勉強させて頂いたと感じた。また棺の中にご遺体を移動させる際には、ご遺体の重みがひしひしと伝わってきた。ご献体くださった方が過ごしてきたこれまでの人生の重み、ご本人およびご家族の尊い意志の重み、そして私たち医学生が立派な医師になることへの期待の重みが加味されているのだろう。一人前の医師となり、病気に苦しむ患者を生涯にわたって救い続けることがご献体くださった方に対する唯一の恩返しであると思う。

最後に、ご献体くださった方々およびご家族の方々、実習の準備や指導をしてくださった先生方、共に学び合った班員の方々、その他解剖実習にご協力頂いたすべての方々に、深く感謝申し上げます。

 

 

藤田琴奈

 

6週間に及ぶ解剖実習は、貴重な経験をさせていただき、たくさんのことを学ばせていただいた実習だった。初日に実習室に入った時の冷たい空気と緊張感から、最終日に解剖台を掃除して納棺したときの寂しさまで、全てが私にとって忘れられない経験である。

長丁場だと思っていた解剖実習だが、膨大な知識量に追われて時間があっという間に過ぎていくことに気づいた。ご遺体を前に学べるこの貴重な時間を無駄にはできないという一心で、毎日必死に勉強した。居残りで実習できる時は最後まで残り、その後も学校に残って班員と次の日の予習を行い、帰ってからも実習書とアトラスを読む、という生活。休みの日ですら学校には誰かしら勉強している仲間がいて、知識を交換し合った。ふと疑問に思ったことがあれば、すかさず先生や仲間に質問し、疑問を残さないように心がけた。6週間の間ずっと勉強のモチベーションを保っていられたのは、実習期間中一緒に勉強してくれた仲間や、どんな質問にも答えてくださった先生方のおかげである。

初めの頃は実習を進めることで頭がいっぱいで、構造が見つからなくて先生を頼ることが多く、教科書通りではない構造があることにもどかしさを感じていた。しかし実習を進めていく中で、教科書とは違う構造の観察に意味があることを理解した。時には他の班のご遺体の様子も見て、構造は違っても、それぞれご献体くださった方が生きるためのシステムが確立されていることに感動した。また一度教科書に載っていない構造を見つけて先生に質問した時、先生が「勉強になりました、ありがとう」とおっしゃっていた。その時、先生もまだ学びを続けている最中なのだということに気づかされた。経験を積んでいっても見たことのない構造に出会うことがあり、こうした学びを一生積み重ねていくのが医学という学問なのだと実感した。

また解剖学は人体のいわば完成した形を学ぶ学問だが、どのようにしてその形になったのか、という発生学の知識や、さらにどういった構造の異常がどのように病気を引き起こすのか、という臨床に絡んだ知識も先生や先輩にたくさん教えていただいた。これらのおかげで、解剖学で学ぶ構造をより深く、より効率よく理解することができた。人体がいかに生きるために理にかなった構造をしているのか。これらの知識が臨床現場においてどのように必要になってくるのか。知れば知るほど面白い知識ばかりだった。

実習で剖出した構造の中で一番感動したのは神経である。指の太さほどもある坐骨神経から、細い皮神経まで、体の隅々まで神経線維が分布しており、これが全身を動かしているということに人体の神秘を感じた。実習の終盤で顔の構造を剖出するようになると、居残り時間などの空いた時間はもっぱら脳神経の剖出をしていた。最終試問で「好きなところを説明してください」と言われた際には、先生が目に入らなくなるくらい脳神経について語り尽くした。この感想を書いている今でも、脳神経を剖出していたときの感動が蘇ってくる。

今回このような心に残る経験をさせていただけたのは、ご献体してくださった皆さまとそのご家族、先生や先輩、班員、多くの方の協力や支えがあってのことである。本当に皆さまには感謝してもしきれない。解剖をさせていただいた以上、私たちにはこれから医学生として懸命に勉強する責任がある。この実習で経験したこと、感じたことをこれからも忘れず、尽きることのない医学という学問を、一生をかけて学び続けていきたいと思う。

 

                               

山野尋生

 

今回の解剖実習を通して、様々なことに関して考えを改める、また深めることになった。

 まず、医学という学問に対する見方、考え方が変わった。実習には、毎回教科書やイラストを用いて予習した上で望んだが、実習中には予習していても分からないことが沢山出てきた。実習の最終日に先生が、教科書的な医学の知識と、実際の人間の状態にはギャップがあり、その差を理解していくことが医師としてのレベルアップに繋がる、と話していたが、本当にその通りだと感じた。医学は、抽象的で揺るぎない理論や知識を学び、それを基に問題を解く、といった高校生までの学習形式とは異なることを肌で感じた。実習を通して、医学という学問の奥深さに気づき、そして人体の神秘にとても興味が湧いた。今回得た気づきを、これからの医学を学ぶ中で活かしていきたいと思う。

 また実習を通して自分の中に、将来の医療従事者としての自覚と責任感が生まれてきたように思える。思い返してみると、解剖実習を行うまでの、主に座学の医学の勉強では、少し妥協してしまうこともあったように思える。膨大な医学の知識を前に、こんなに覚えるのは無理だとか、テストに出なそうだから覚えなくてもいいか、といった具合に主観的で低次元な言い訳をして、勉強から逃げてしまうことが少しあった。だが、解剖実習で実際にご遺体を前にして、実習を行っていると、自分、即ち医学生に対する世の中の人達からの期待を強く、そして重く実感し、以前の妥協してしまっていた自分がとても恥ずかしく思えた。そして、見えている所でも、見えない所でも、自分が将来医師として働くために助けてくださっている方々が沢山いることを改めて感じ、将来自分を待つ患者さんは勿論のこと、そうした支援をしてくださる方々の為にも、期待を裏切らないよう日々自己研鑽をしなければならないと強く心に思った。将来医師になる立場として、その自覚と責任感を忘れずに、今後の医学部生活を過ごしていきたいと思う。

 また実習全体を通して、命というものに思いを巡らせることが多くあった。ついこの間まで、自分たちと同じこの世で生きていた方々と実習を通して関わることで、命あるものは必ずいつか死んでしまうということを改めて感じさせられた。その上で、健康である、といったことがどれだけ恵まれていて、運が良いことなのか、といったことをこれまでよりも強く感じた。そして、医師として患者さんの病気を治すということは、患者さんにとってどれだけ大きな意味を持つのか、またどれほど重大な出来事なのか、といったことを考えさせられた。命の尊さに思いを馳せて、人を救う為に必要な努力をこれから全力で続けていこうと思った。

 約六週間に亘る解剖実習だったが、かなり多くのことを学ぶことが出来た。得られたことを大切にして、自己成長に繋げていきたいと思う。

 

解剖実習を終えて(令和2年度)

医学群 医学類 2

今井勇輝

実習が始まる初日、これから人体の構造を学ぶことができるという期待と、実際のご遺体 を解剖させていただくという不安で胸がいっぱいであった。いざ解剖が始まり、ご遺体の 皮剥から皮神経、皮静脈など確認していくにつれて、その不安というものは消え、人体の 不思議に心を踊らせながら解剖を進めていった。はじめの方は実習書をよく読んで、教科書などを参照しながら進めていけば理解することが容易であったが、解剖が進むにつれ て、1つの血管、神経、臓器に多型性に富んでおり、どれ1つとっても教科書通りの器官 はなく、予習してきたものが実習に生かされるようなことが少なくなっていた。そうして 解剖に苦戦する日々が続く中、大学院生の方が「細かいところも大事だけれども、臓器を 理解する上で、思考の軸になる基本的な部分を理解することが大事だよ」とおしゃってい たのを今でも鮮明に覚えている。実際、それから予習の仕方を変えると人体の構造を俯瞰 的に見ることができるようになっていた。ただ、全てがうまくいったわけではなく、目的 の臓器を見つけることができなかったり、その臓器の役割を教科書的には理解することが できても、実習室ではその形状と構造物から一致させることができないことも多くあり、 苛立ちが溜まっていく日もあった。 今、実習が終わってみると、全日程を走り抜けることができたという達成感と、途中投げ 出しの状態になってしまった自分に対して、反省の念を抱かざるをえなかった。最後の先 生達のお言葉の中で、「ご遺族は献体することがどれほど覚悟を必要とするものなのか」 ということを話していただき、解剖が始まってから終わるまで、しっかりと感謝の念を持 ちながら進めることができたのかと自分に問いかけたが、素直に頷けることはできなかっ た。解剖が終わり、帰宅したとき、ふと涙がこぼれた。人体の不思議に触れさせていただ いた感謝を医者になったあとも持ち続けて、多くの患者さんの命を救えるように日々勉強 に邁進していくことが、今回献体していただいたご遺体の供養につながると思う。 そして、私たちが気持ちよく解剖実習を行えることができたのは、毎日実習室を清掃して いただいたり、その日必要な解剖の道具を揃えてくださった方々のおかげであることも忘 れてはいけない。このように知らないところで私たちを支えてくださっている人たちにも感謝 しながら、これからも医学生として頑張っていきたい思う。

 

大越萌子

 

二年次春学期の授業で、消化器外科の先生が「手術を円滑に進めるには手先の器用さよりも解剖学的な知識の方が圧倒的に重要」と言っていたことがありました。その時の私は体の中を実際に見たことがなく、解剖学の難しさも体感していなかったため、半信半疑でその話を聴いていましたが、解剖実習を終えた今はその先生が言おうとしていたことがある程度想像できるような気がします。

私たちがご献体としてお世話になった方は86歳の時に老衰で亡くなった女性で、背中には褥瘡の跡がたくさんあり、亡くなる前はほとんど寝たきりで過ごしていたことが想像されました。筋肉をはじめあらゆる構造がもろくなってしまっていたため、実習書の指示に従って筋肉や血管を切断しようとしても、どれが切断すべきものでどれが残すべきものなのか、判別することがとても困難でした。まさに、手を使った作業に入る以前に、目の前の構造を解剖学的に理解する段階でつまずいてしまっていたのです。このままではいけないと思い、図譜と実際の体の様子が違うと感じた時には他のご遺体を見せてもらってより詳しいイメージを得たり、正常とのずれである変異のパターンについて事前に調べたりしてから実習に臨むようにしました。こうすることにより構造についての理解が深まり、何を基準に見るべきものを探せばよいかが明瞭になるため、実習中に筋肉や血管を判別するのが前よりも容易にできるようになったのです。解剖学的な知識があれば人体の見方も剖出作業に有利な方に変わっていくのだなと感じることが多々ありました。とはいえ、生命維持に重要で構造も複雑になる首や上半身の深部に入ると、いくら知識を得て班員と協力しながら実習を進めても実習書通りにはうまくいかないことばかりで、この方は全体的に構造がもろいから、と諦めてしまったことも何度もありました。実習が終わった時は、全身について勉強することが出来たという達成感ももちろんありましたが、献体いただいた方、そのご遺族の方が望んだような学習を自分たちは出来たのだろうか、という罪悪感の方が大きかったような気がします。解剖実習で解剖させていただく方は私たちにとっての最初の患者さんである、とよく言われますが、将来医療の現場で患者さんの体内を診るときには、ご高齢で身体機能が衰えてしまっていてもそれを理由に構造の判別を諦めてしまうことは決してできません。解剖学的知識がいかに、実際の体内を診るときの自分の助けになるか、今回の実習で感じたことを心に留めながら、次の患者さんを診るときまでにさらに知識を深めていきたいです。

 

 

荻野 遥

 

解剖実習の最後の日、私たちはご遺体をお棺に納めた。6週間にわたってお世話になったご遺体。お棺の中の姿を見たり、花を添えたりして、この方が亡くなったときのことを考えた。この方に家族がいるのだな、どんな人生を送られていたのかなと改めて考えることとなった。私がそのようなことを考えていた時、先生が学生全体へと声をかけた。「この方々はお葬式の途中で大学に来てくださっている」との発言であった。力強く熱い声で語られたその言葉は、深く感じられた。私は、本当にその通りだと思った。この日以前にも、ご献体された方々はお葬式を終えたのだろうか、まだお体はここにあるがどうしているのだろうと考えたことはあったが、途中、という表現が印象的であった。そんな大切な時期に我々のもとにお体をお貸しくださっていたと思うと、本当にありがたいことである。

解剖実習は、医学生としてやらなければならないものであり、覚えることや勉強することが多く体力的にも大変で、実習の最中は、正直、つらいと思うこともあった。しかし、1人の方のご遺体と向き合ってずっとその方について学んでいったこと、班員とともに実習を行ったことはとても大切な体験になった。私たちは医学生ではあるがまだ二年生で、実際の患者さんを診察するような経験はしたことが無い。ご献体者は、初めての患者さんともいえるものであった。そして、他の動物ではなく人に向き合ったことで、私たちは医師になるのだと再認識することになった。

 私は毎回実習はじめと終わりの黙祷で、ご献体くださった方への感謝を心の中で述べるようにしていた。「今日もよろしくお願いします」や、「ありがとうございました」に始まり、その日の進み具合や学んだことを述べるのである。始まりの黙祷の号令を自分が担当したときも、頭の中で余裕をもって感謝の気持ちを述べる時間を設けることを意識して行った。ご献体者を解剖するのはもちろん私たちの手なのだが、体の様子を見せてくれるのはご献体者で、先生のような存在であった。正常な構造はもちろんのこと、教科書通りとは限らない人体の構造や個人差について、文字通り身をもって教えてくださったのは、ご献体者であった。机上で考えているだけではわからないことをたくさん学ばせていただけた。

ご献体者は、私たちにとって、患者さんでもあり先生でもある、そのような存在であった。

実際の臨床についてはこれから学ぶが、この解剖学で学んだことがとても重要な基礎となることは間違いがない。今年は、新型コロナウイルスの流行により解剖実習を行う時期が遅くなってしまった。その影響で先に消化器系について学んだが、基盤が足りないと感じた部分があり、一方で、解剖実習の際に消化器の理解がしやすいとも感じた。解剖学と臨床は強く結びついているのだとしっかり認識したうえで、これからも学んでいきたい。そしてこの解剖実習の記憶を大切にしながら、医師として働きたい。

 

 

金 旻奎

 

人間の体を解剖することは一般的に常識を超えるものとみなされる。よって、どんないい理由があっても、解剖する以上それに伴う責任感を痛感しなければならない。私は解剖実習でこのよう、知識それ以上のものをご献体された皆様から教えてもらったと思う。

実習が進むほど、私たちの感覚は少しずつ鈍感になっていき、実習が終わるころには、実習第一日目ご遺体から白い布を取るときの緊張、解剖を始めるとき解剖器具を持った手の震えなど、最初の衝撃はほぼ消えていた。実習を終えて納棺を行いながら、ご献体された方が生前お使いになっていたもの、帽子や時計などの日常用品を見たとき、またそれをご遺体とともに納棺するとき、私は自分がこの6週間やっていた実習の重さを今更のように実感した。その衝撃は実習第一日目のそれより大きかった。納棺式の最後に行われたご献体された方々に対する1分間の黙とうを、私は実習を行った6週間よりも長く感じた。医師は人にたいして、敬意と尊敬をもって行動をしなければならない。ご献体者にも例外はない。いつも頭に入れていた考えではあるが、実際に解剖実習を行いながら体感することでその意味が一層深く心に刻まれた。

コロナウイルスの流行のせいで慰霊祭がなくなってしまったが、私を含め筑波大学の医学生たちはご献体された皆様やご遺族の皆様に一生をかけても返せない恩を被ったことであり、感謝の気持ちを持っている。この実習で医学生たちが得たことは解剖学的知識だけではなく、未来の医師養成のためにご献体された方の遺志を継がなければならないという責任である。忘れてはいけないことは医学的知識よりも、なぜ医学を勉強しているのか、またなぜ医学を勉強することができるのかである。後者を忘れた時点でどのぐらい優れた知識を覚えても、それは正しく使われないことに決まっているので、その存在価値はないともいえる。

まだ私は2年生であり、医師になることは遥かに遠く感じている。だが、この6週間の経験を無駄にしないためには、私は医師にならざるを得ない。これは私個人だけの問題ではないということが分かったからである。社会から医師として貢献してほしいと期待されていることが分かった以上、その約束を守りたい。

 

 

酒井直希

 

初めにご献体いただいた方とそのご遺族に感謝の言葉を述べたい。人にとって今後訪れる自らの最期と向き合うことは大変悩ましいものである。生前から考えをめぐらせ、献体という道を選ぶのはさらに難しいことだ。私たち学生と6週間の間向き合ってくださった、ご献体いただいた方々に深く感謝したい。私は近しい間柄の人を亡くした経験はまだないが、大切に思う人が心に深く傷を負った姿は目の当たりにしたことがある。傷ついていた当人はもちろん私自身も言葉に表すことのできない深い悲しみにくれたことを今でも鮮明に覚えている。物理的、心理的、どんな形であれ大切な人が傷つくことは、そばにいる人も大変心を痛めるものだ。そして寄り添う距離が近ければ近いほど痛みは大きくなってしまう。献体には医学の発展という目的があるが、解剖することは、決して好まれることではない。大義名分があるがためにさらに複雑な葛藤が生まれてしまう。ご遺族の方々がこのような葛藤を抱えているであろうことは想像に難くない。その葛藤と向き合い、ご協力してくださったことに心から感謝したい。

恥ずべきことだが、解剖実習の貴重さと重要さを実習前には十分に理解できていなかった。軽んじていたわけではないものの、実習の前と後では比較できないほどの差があると感じている。実習に臨む前は人体のつくりを「見る」つもりでいた。だが実際に解剖を行っていくうちに目にした構造を頭へ「刻み込む」ようになった。今後向き合っていく人体について、ここまで深く学び理解する機会は今しかないことに気づいたからである。「百聞は一見に如かず」ということわざがあるが、まさにその通りで自分の目で確認したところは、鮮明な実習の記憶とともにその構造を理解することができた。人の構造を「見る」ことは資料等で行えるが、解剖では理解し頭に「刻み込む」ことができる。その点において紙やPC画面では代用ができない。解剖実習は替えがきかないのだ。先生方がおっしゃっていた「解剖実習をもう一度行いたいと思うようになる」という言葉が身に染みてわかった。解剖実習では知識だけでなく、医師を志す者としての自覚を持つこともできた。緊張感の中、4人で同じ目標をもって6週間を過ごすことは、学生の間にはめったに経験できることではない。また、お互いが剖出した部分などの意見交換を毎日行った。ここでは各々の剖出の責任、それを班員で共有することの責任、この二つを経験することができた。これらは医師として現場に出れば当然のことである。それぞれの役割を全うしその内容を他の医療従事者へ伝達する。これができなければ、患者を支えることはできるはずがない。学生の間にこのような経験できたことは、医師としての心構えの柱となると感じた。

実習後、班員とともに慰霊塔を訪れた。そこには「医学徒にはげましと大きな期待を寄せて」と刻まれていた。感謝の気持ちが溢れると同時に、そのはげましにどれだけ報いることができるのか、その期待にどれだけ応えることができるのか、不安も募った。その不安が杞憂であったと言えるほどの十二分な恩返しをするためにも、今まで以上の努力を積み重ねていかなければならないと改めて覚悟をした。

最後に、実習の準備や指導をしてくださった先生方、ご献体いただいた方々、そのご遺族の方々、今回の解剖実習に関わったすべての方々に、改めて深く感謝申し上げます。

 

 

阪中優太朗

 

解剖実習が始まるまで、僕はなぜ6週間という長い期間をかけて毎日毎日実習をしなくてはならないのかわからなかった。自分で観察して分かることよりもよっぽど詳細に描かれた人体の図表があるし、人体の詳しい3Dモデルを自由に動かすことのできるソフトもある。それを見ながら、実習の手引書に沿って、オンラインで解剖実習をすればいいじゃないかと思っていた。しかし、実際に実習が始まってから、その考えがいかに的外れであったかを実感した。

まず、医学とは人を診る実学である。教科書や図表で理論的な知識を身につけた上で、実際に自分の目でその構造を見ることで初めてわかることがたくさんあった。点として得た知識が、実習中に線として繋がり、やがて自分の頭の中で地図として形作られていく感覚があった。実際の人体は、わかりやすく描かれた人体の図表とは異なっていて、何がどこにあるのかとても分かりづらい。パッと見ただけでは、それが正常な構造なのか、異常な構造なのかも全くわからなかった。しかし、医者となり患者を診る時には、その分かりづらい人体と向き合い、異常を発見しなければならないのである。だからこそ、実際の人体をしっかり観察して、自分の中に正常な人体構造の地図を作成することは、医師となる上での絶対条件である。だからこそ、この解剖実習を通して人体の構造に対する知識を深めたことが本当に重要なことであったのだなと思う。

また、この実習でご遺体を実際に解剖することを通して、死というものについての考えを深めることができたと思う。今年の夏に、身内の葬式に参列した。その時に、なんだか遠い存在のように感じていた人間の死に人生で初めて対面した。しかし、正直なことを言うと、悲しみや虚しさが先行してしまい、それがどういうものであるのかをあまり実感することはなかった。今回の実習では、人生で二度目の死に対面することになった。解剖実習が終わってご遺体を棺に納めるときに、本来ならば生前のままのお姿で葬式ができたはずだったのだなと改めて感じた。だからこそ、筑波大学の医学生のためにお身体を提供してくださったことに対し、ご本人やご遺族の方々の崇高な意志を感じて、感謝と畏敬の思いで一杯になった。また、医学という学問が、このような本当に崇高な意志やたくさんの人たちの努力によって進歩してきたという事実が、自分自身に重くのしかかってきた。僕たちはその意志と努力をしっかりと受け継いで、医師として少しでも多くの人の命を救わなければならないということを実感した。今回解剖させていただいた方の意志と想いを決して忘れずに、未来へと受け継いでいくことこそが、自分にできる一番の感謝の示し方なのではないかと感じる。解剖実習を終えて、やっと医学生としての自覚がしっかりと芽生え、スタートラインに立つことができたように感じる。

 

 

櫻井晶子

 

先日、6週間にわたる解剖実習を終えた。今年度は新型コロナウイルスの影響で当初予定されていた時期から4ヵ月ほど延期された。他の大学では対面での解剖実習は中止になりバーチャルで代替されたところもあったようなので、対面で行うことができたのは非常にありがたかった。この目でみた、自分たちの手で剖出した構造は何よりも強く印象に残っている。他の科目の勉強においてもテキストや参考書を見るだけよりも絵を描いた方がよく理解できる。しかし実物を自分の手で出していくというのは、その比ではなかった。予習をして、その通りになっているところもあれば全く異なる部分も多い。全体として、教科書に載っていることをただ正確に覚えるということではなく、正常と言われる状態の、3Dでの構造を把握し、文章を見たときに自分の頭の中でイメージできるようになるということが一番の目的であり、大事なことなのだろうと感じた。そして試験勉強の際にもこの重要性を感じた。実際に手を動かして見ている分理解のでき方が違う。さらにただ覚えていくだけでなく、立体的な構造や機能を考えた上で「この部分はなぜこのような構造になっているのか」「どんなはたらきをしているのか」などについて考えながら深く学んでいくことができた。これは実習がある科目ならではであり、今後学ぶ科目においても今回の経験が活かされるであろうから、本当に貴重な経験ができた。この状況下で解剖実習を行う判断をしてくださり、無事に終えさせてくださった先生方に感謝を伝えたい。

解剖実習中の精神面については、想像以上に厳しいものだった。先輩から話を聞く中で、ある程度の覚悟はしていたつもりだった。しかし実際にご遺体を前にし、人間の身体を解剖することにとてつもない罪悪感や恐ろしさのようなものを感じてしまった。自分が人間でなくなるような気さえしてしまった。ご本人やご遺族の方はつらい気持ちにならないわけはなく、その思いを抑えてまで医学の発展のために、とご厚意でご献体してくださっている。だからこそ、実習をさせていただく側の自分がこのような感情を持つことは失礼にあたるのではないかと悩んだ。深い感謝を持って、誠実に向き合うべきであって、罪悪感に苛まれているのは違うのではないかと思った。しかし耐えられない部分もあり、実習期間中は食事がろくに取れず、色々と考えてしまい寝付けず、睡眠もなかなか取れなかった。それでも実習が進むにつれ、やるべき工程や学ぶべき事項が増えるにつれそれらに集中していくことができた。血管や神経の走行や筋のつき方など、なるほどこのようになっているのか、おもしろいな、と思うことができるようになっていった。班員も私の心情をわかった上で、実習の手技面だけでなく精神面でもたくさん助けてくれ、感謝が尽きない。チームとして動くということの意味や大切さも学べたように思う。それらも含め、本当にたくさんのことを学ばせていただいた。実習が全て終わり、納棺した日には、ずっと見させていただいてきた、ご献体してくださった方に対する感謝の気持ちが心の底から溢れた。初めの頃に感じた恐怖のような感情はもう無く、罪悪感こそまだ残っていたものの、何よりも感謝の気持ちが大きかった。

この経験もこの感謝の思いも、そしておそらくこの罪悪感も、すべて「人の命」というものの重さや尊重の気持ちにつながっていると思う。今後もずっと忘れずにいたいと強く思う。そして人々の身体と心を救う助けとなれるような人間に、医師になりたい。

 

 

潮平知之槙

 

8/2810/8の約6週間に及んだ解剖実習が終了した。今年は新型コロナウイルスの影響で変則的な日程になったが、しっかりと実習をやりきることができた。本レポートでは、解剖実習を通して私が学んだことや強く印象に残ったこと、および実習を進めていく中で考えたことについて実習をやる前とやった後での心境の変化もふまえながら記していきたい。

まず、解剖実習が始まる前のことを思い返すと、私はかなり緊張していたと思う。ちょうど1年前くらいから医学の専門的な授業は始まっていたが、それはあくまで座学であり、机の上の知識としてしか人体について知らなかった。だが、今回の解剖実習では実際にご献体者の体に触れることで学ばせていただくわけであり、そのことが私をとても緊張させていたのだと思う。また、緊張していたと同時に最初で最後かもしれない経験ということもあって楽しみでもあった。

そしていざ実習が始まると、予想通り、最初の方はものすごく緊張した。加えて、実習室は非常に蒸し暑くて苦しかったのを覚えている。だが、実習自体は毎日新しい部位について観察ができ、この目で見てこの手で触れて感じたことが自分の糧となり、想像ではない、リアルなイメージを形作って自分の知識そのものとなっていく感覚が非常に楽しかった。また、実習をしていく中で強く感じたのは、ご献体者の体は必ずしも教科書通りではないということだった。前日に予習をして行っても実際にその構造を見てみると、若干分岐する箇所が異なっていたり、自分が想像していたものと違う質感、大きさ、重さだったりしてそれが非常に印象的だった。また、初めてみる関節や臓器の実物に驚くとともに感動することが多かった。

だが、この解剖実習をする中で最も強く思ったことは、実習を通して学べば学ぶほど実感したことでもあるのだが、私がこうして人体について深く学ぶことができているのは、ご遺体を提供してくださった方がいるからなのだということだ。私たちは、会員の方がお亡くなりになられた後、解剖させていただいている。ご献体されなければ傷つくことのなかったお体であったのに。もし仮に私が高齢となったとして、同じような選択ができるかと考えた時に、きっと御献体の方はどの方も、私たち医学生が立派な医師になれるようにとの願いを込めて決断を下してくださったのだろうと思った。そして私たちはそれに感謝するとともに責任を持ってしっかりと学習しなければならないのだとも強く思った。

最後になるが、今回の解剖実習は私にとって間違いなく一生忘れることのない経験になったし、これからの学びの1番の基礎になると確信している。今のこの気持ちを忘れることなく、より一層気を引き締めて今後の学習に取り組んでいきたい。

 

 

玉城泰斗

 

私は解剖実習が始まるまで自分で参考書を読んで解剖学を予習していたのだが、参考書やインターネットの画像だけではあまり理解できない部分が多く、実際に自分の目で見たいという気持ちが募っていただけに、まずはこの状況下で解剖実習に参加できたことに感謝したい。

6週間の解剖実習の間、もちろん医学に関する知識が増えたことは言うまでもないが、何よりも気持ちの面での変化が大きかったように思える。実習初日、解剖室に入室すると多くのご遺体が解剖台に並べられた光景を見て、医師という命に直接関わる仕事の責任の重さを非常に強く実感した。あの時感じた緊張感や不安はうまく言い表せないが、医学を学んでいくことに対する覚悟を決めたような思いだった。恐らくこの日のことは医師として働き始めても忘れないと思う。この実習が始まる前までは、この辛い期間をどう乗り切ろうかということばかり考えていたが、いざ実習が始まると、前日の予習で教科書に載っていた筋肉や神経、臓器などを実際に自分の目で見ることができることの喜びから、毎日の勉強がそれほど苦に感じなかった。これまで約一年医学の講義を受けたが、これほど知識を吸収できるような機会は無かったと思う。

今回の実習で感じたこととして、教科書やアトラスなどの参考書に載っている解説と、実際の人体では、食い違っていることが少なくないということがある。私の班で解剖させていただいたご遺体だけでも変異が数カ所あった。ある先生が「全ての細胞が何かしらの血管に栄養されている。教科書やアトラスにはその中で最も多い例が載っているだけで、血管の分岐の仕方が違ってもどこかで補えれば何の問題も無く、そういうことは実際に解剖してみないとわからない。すべての構造がアトラス通りの人は一人もいない」とおっしゃっていて、まさにその通りだと思った。基礎としての座学は大切だが、それが全ての人間に当てはまるものでは無いので、実際に人体の構造を自分で見ることができるこの実習は非常に貴重な時間だと思った。また、この考え方は臨床の現場でも大切だと思った。患者さんの病気を一般的な条件だけで考えるのではなく、例えばその人の生活習慣などの要因も考慮することなどで似た考え方を感じた。

今後学んでいく臨床の分野では、病気について、すなわち身体の異常について焦点を当てていくことになる。「異常を知るためには正常を知れ」これも同じ先生の言葉で、医師が患者さんの身体の異常を調べることができるのは、正常な状態を知っているからという意味である。今回の解剖実習を以って人体の正常な状態を学んだが、これを深く理解することが臨床の分野に活きるので、地道な努力を続けたいと思う。

 

 

寺島昂誼

 

全世界で新型コロナウイルス感染症が拡大している中、6週間にわたる解剖実習を無事に終わることができた。当初は日本国内や茨城県内の感染状況が悪く、大学への入構が禁止になったり授業もすべてオンライン化になったりして実習を行うことが厳しい状況であった。

正直、解剖実習を行う前までは解剖実習を行う部屋に一学年全員が集まることは新型コロナウイルス感染者のクラスターを発生させるリスクを上げることになり、更なる流行拡大につながりかねないと思いオンラインでの学習だけで十分だと思っていた。実際に解剖実習は行わず、すべてオンラインで解剖学を学ぶことにした大学もある。その一方で、筑波大学は先生方や関係者の方々のご尽力によりフェイスシールドやマスク着用、入室時の体温検査など厳重な感染対策の下で解剖実習を行った。6週間の実習を終えた今、改めて思い返してみると対面での解剖実習を行うことができて本当に良かったと思う。まずはこのような状況でも解剖実習を行うことを可能にしてくださった関係者の皆様に多大なる感謝を申し上げたい。なぜこのように思うのかというと、オンラインでの勉強では学べなかったことが非常に多くあったからだ。その中で重要だと考える体験的学習と道徳的学習について述べていこうと思う。

まず、体験的学習はオンラインでは絶対に学ぶことができないものだ。具体的には、実際に解剖して三次元での位置関係の把握や神経支配の複雑さの視覚的理解が挙げられる。特に個体差について。座学では解剖図に基づいて学習しているが、その解剖図に載っているのはあくまでもイデア(理想的な形)であり、その解剖図通りの身体を持っている人は誰もいない。無論、個体差があるということはオンラインでも知ることができるが、それがどのようにイデアと違うかということは実際に目に入れないと分からないだろう。

次に、道徳的学習について。自分たちは当たり前のように「生」の世界で生きているが、この解剖実習では「死」を感じた。特に初めてご遺体のお顔を覆っている白い布を取ってお顔を拝見したとき、そして冷たい肌に触れたときに感じた。「死」は医師という職業柄、ずっと付き合っていかねばならないものであり、自分の目指す職業の責任の大きさも感じた。

これらのことは実際に解剖実習を行わないと分かり得ないことである。

最後に、この解剖実習はご遺体を提供してくださるご本人様とそのご遺族の方々の協力があって初めて成り立つものであるため、多大なる感謝の念を示し申し上げたい。我々医学生にご遺体を託して、学びの場を設けていただき誠にありがとうございました。この解剖実習で感じたことを忘れずに社会へ恩返しができるような医師になれるよう頑張ります。

 

森口裕之

 

6週間の解剖実習を終えて1週間が経ちました。今でも、毎日の大学からの帰り道、畑の中の暗い道を歩きながら思い出しているのは、解剖実習で触れさせていただいたさまざまな器官の立体的な姿かたちや、その体内でのつながりの様子、触れた時の感触などです。

解剖実習が始まって2週間ほど経ったころ、『筑波しらぎく』の冊子をあらためて手に取り読み入ってしまいました。お孫さんが日々成長する様子を眺めるのが今の生きがい、と書かれている方や、長く続けてこられたお仕事について書かれている方、生きることは何故こんなにも辛いことばかりなのか、人は何のために生きるのか、と書かれている方など、お一人おひとりの思いのこもった文章を拝読し、自分の祖父母のことを思い出さずにいられませんでした。実習の期間中、予習復習や剖出の作業に追われがちな私でしたが、その間も『筑波しらぎく』で拝読した内容は常に頭の片隅にあったように思いますし、これからも残り続けるだろうと思います。

私はすでに四人の祖父母や義父、伯父を亡くし、若い後輩を亡くしたこともあり、お通夜から葬送、火葬、そしてお骨を拾い、家に帰り・・・ という流れを何度か経験しました。そのようなときやはり、遺体を囲んで家族で過ごす時間や、冷たくなった手や額に最後に触れる時や、納棺し、お顔を最後に見る時というのは、本当に大切な時間だという実感があります。それを敢えて最小限にとどめ、医学生のために身を挺してくださったということについて、言い表せないほどの有り難さを感じます。そしてそのこと自体が、今後私たちがそれぞれに迎えるであろう人生上の、あるいは仕事上の「クライシス」に際して、一つの大きな支えになるのではないかと思います。

ご献体者に触れさせていただかなければ何も学べなかったようにさえ思えます。アトラスの詳細で綺麗なイラストはあくまで「イデア」であると考えなさい、と話してくださった先生がいらっしゃいましたが、たしかに実際の体内の様子は全くと言ってよいほど別物でした。理想的な断面が最初から与えられるわけがなく、実際に皮膚から、さまざまな組織・器官の弾性や力学的強度を感じながら連続的に体内を探検させていただく機会がなければ、まるで地図だけを見て地球を理解したと思うことと同じだと、今は思います。将来どの診療科に進むかは未定ですが、きっとどの診療科に進んでも解剖実習のことを思い出すのだろう、そして、あの時もっと見させていただいたらよかったと思うに違いない、などと想像しながら実習を進めました。

印象に残っているのは、それぞれの組織・器官の「感触」や「たたずまい」です。体内各所において、動脈と静脈、神経繊維と神経節、リンパ管とリンパ節、筋膜、靭帯、筋肉、骨、それらを包む脂肪組織などは、それぞれが特徴的な「丈夫さ」や「柔らかさ」をもってそこにありました。また一口に「骨」と言っても、例えば肋骨と鎖骨では硬さが全く異なり、それはそれぞれの機能に応じたものと理解されました。実習期間中、そのような「感触」を感じ「たたずまい」を眺め解釈することに夢中になっていたように思います。手足の指につながる長い屈筋や伸筋の腱がいかに美しく丈夫であるか、それが腱鞘によっていかに動きやすくされていて、支帯によっていかに支えられているか、ということや、壁側心膜を開いて心外膜に包まれた心臓に触れたときの滑らかさと大きさなどにも感動しました。大動脈弓とそれに続く下行大動脈や、腰椎の椎骨、梨状筋の下から伸び出した坐骨神経、腎臓を包む脂肪被膜の手厚さなど、大きく力強い構造も印象的でしたし、側頭骨錐体部の中にかろうじて見出した耳小骨の並びの3次元的な方角がイメージとはほとんど逆であることに気づいた時に「わかった」という感動や、卵円孔がたしかに卵円形で正円孔がたしかに正円形であることを確かめた時の「たしかに」という感動など、我ながら無邪気に学ばせていただいたと思うと同時に、そのためだけのご献体ではないこともあらためて認識したように思います。私たちが今後、臨床において一人でも多くの方の助けとなれるように、また研究において一つでも多くの進歩をもたらすことができるように、との激励をうけたものと考え、今後の日々を過ごしていこうと思います。思えば、医療だけでなく、衣食住をはじめとする社会のあらゆる面において、私たちは無数の命に支えられて生きているのだと思います。そして私たちもその一つになっていくのだと思います。

納棺の際にお贈りするお花を、班を代表して購入する係を引き受けられたことが正直嬉しく、白菊が1本では寂しい気がして、2本にしてもらい、それを中心に季節の花のりんどうやコスモスを加えた花束を作ってもらって持参しました。納棺の時には、やはり自分の祖父母のときのことを思い出し、また、先生方の中に解剖実習の期間中にご親族を亡くされた方がいらっしゃり、そのことを話してくださったことも大きく、ただひたすら「与えて」いただいたということをあらためて思いました。そしてもっとたくさん吸収すべきであったのに、という反省も感じました。せめて今後、医師に向けての学びのあらゆる場面で、実習のときの、自分の目で見て手で触らせていただいた記憶を反芻しながら学んでいこうと思います。

COVID-19のパンデミックという歴史的な状況下において実習の実現と運営のために見えないところでご尽力をいただきました教職員の皆様に、感謝を申し上げます。有難うございました。そして、私たちの実習が終わるまで長い期間を待ってくださいましたご献体者とご親族の皆様に、深く、感謝を申し上げます。有難うございました。

 

 

解剖実習を終えて(令和元年度)

医学群 医学類 2

 

伊藤嘉郎

6週間の解剖習を終えて、大だった習が終わって正直ほっとしている。それと同時に、これほどぶことの濃い6週間はあったのだろうかと思い返している。というのも、医学的な勉としても、とてもぶことの多いものであっただけでなく、際にお身体を提供して下さった方のお顔を見たり、心情を考えたりすることで、道的な面でもぶことがあったと思っている。それぞれについて具的に書いてみたいと思う。

まず、医学的なびとしての解剖習について。習を通して常に感じていたことは、想像を超える人の複さである。骨だけでも200個、筋肉だけでも650個ほどあり、さらにその間を血管や神が通っている。普段何なく生きている私達も、このような複な機構によって支えられているのだと思い、人の神秘を感じることが出た。それと同時に、病というのはこのうちの1つでも正常でなくなると起こるものであるから、いつ起きてもおかしくない人間には切っても切れないものだという感想を持った。そして、それぞれが複連を持って動いていることが多いという感想も同時に持った。例えば、顔面神は表情筋、アブミ骨筋、腺、唾液腺、舌の味という全く別のものをそれぞれ支配する。このことから、ひとつのものが上手くかなくなると色な他の器官にも影響が出るばかりか、ひとつの病を治すために何か施したらほかの器官にも影響が出るということを感し、そうした連は師になるにあたって正確にえておかなくてはならないと身が引き締まる思いになった。また、解剖習は、今までに習ってきた基礎医学の知識を増強する果もあったように思う。今までに習ってきたことは、言葉やイメージとして捉えたり暗記したりしていても、物として想像出なかったためあまり感として感じられなかったが、解剖習で自分の目で見たことによって感として捉えられ、知識が定着したように思える。そして、破格の存在にも驚いた。我の班では、腸腰動脈が腸骨動脈から出ていたり、脾脈が上腸間膜脈から直接出ていたりと、珍しい破格があった。このように、人によって科書通り行かない部分があるので、手術の際などはをつけなければいけないというびもできた。

次に、道徳的な学びとしての解剖実習について。1日目、ご遺体の布をめくり、お顔を見た時、色々と考えることがあった。どのような気持ちでお身体を提供して下さったのだろう、ご族遺はどう思ったのだろう、といったことだ。そういった気持ちはご本人しか分からないことである()が、本来ならば生きた時のままのお姿でお葬式が出来たものを、我々医学生のためにお身体を提供してくださったことに感謝の気持ちで一杯です。こんな機会をいただいたのだからしっかり勉強して良い医者にならないと申し訳ないと改めて身が引き締まる思いになった。また、何気なく解剖実習後にしらぎく会の冊子を見た時に、我々が解剖したと思われる方の写真を見つけた。その時、この方はどういう性格でどんな人生を送ってきたのだろうという思いを巡らせた。この方は一人の人間なのだということは頭ではわかっていたが、実感を強く得たのはこの時が初めてであった。それと同時に、病気を診るのではなく、人を診なければならないという意味がわかったような気がした。

このように多くのことを学んだ解剖実習であった。この学んだことの1つひとつを忘れずに、これからも勉学に励んでいこうと思う。

 

大賀浩銘

 

ご遺体と初めて顔を合わせたとき、解剖実習がいよいよ始まるという不安や緊張、興奮、高揚感といった様々な感覚を覚えたが、何よりも鮮明に覚えているのは、これから解剖実習を通して様々なことを学び、医師になるための大きな一歩を踏み出せるという嬉しさと、自分が医学生であるという実感であった。大学入学以来、実のところ私はその実感を得たことがなかったが、ご遺体とお顔を合わせたときに初めて得られた。今までの教養科目や基礎医学の講義では、自分が医学生であるという事実を意識させられたことは正直に述べると無く、自分自身医学生であるということがしっくりとこなかった。しかし、解剖実習室に足を踏み入れ、ご遺体のお顔を拝見した瞬間に私は医学生で、将来医師になるのだということが、すっと自然に受け入れられてしまったのである。私は解剖実習が2年生の春学期にあって良かったと終えた今では考えている。始まる前までは、6週間に詰め込まれて春学期にやるくらいなら秋学期や3年生で行うのがいいのではないかと考えていたが、今ではむしろもっと早くても良いとさえ考えている。なぜなら、自身が医学生であるという自覚は勉強に対するモチベーションを高め、模範的な医学生らしく行動できるようになるからである。これまでの大学生活では、勉強面で少し怠けてしまったが、この後の学生生活でまだ大いに挽回できると考えているので、2年生の春学期という比較的早い段階で、喝を入れてくれたことに感謝し、この後の臨床分野は頑張りたいと思う。

今回の実習で、医師という職業の重さの片鱗にも触れた。私は身内で亡くなった人はいるが、ご遺体に文字通り触れたことは無かった。初めてご遺体に触れたときのあの冷たさは一生忘れられないと思う。また、触ったときに「死」というものも強く感じた。医師が戦っていかなければならないもので、我々にこの先一生付きまとってくるものである。そう考えたときに医師は人の生死を左右し、命を扱う職業であることを強く実感した。

また医師という職業は目指すことそれ自体にすら覚悟が必要であるということが、解剖実習を通して身に染みてわかった。これから医師国家試験を受け、「医師」を名乗るまでのおよそ4年半、死に物狂いで勉強に励み、あらゆる知識を吸収しなければならない。そうでなければ、ご献体いただいた方々、ご遺族の方々に対して、将来、我々医学生の為にお身体を提供してもよいと自ら進んで志願してくださっている方々に失礼である。学生は勉強も大事だが、遊んだり、サークルや部活に勤しんだりすることも大事だと云う人もいる。しかし、それはあくまで医学生ではない一般の学部の学生の話である。我々医学生は多くの人々の大きな支えによって、こうして学ぶことが出来るという事実を真摯に受け止め、日々学び続けなければならない。

最後に、我々にお身体を提供してくださった方と、そのご遺族の方に多大なる感謝の念を示したいと思う。本当にありがとうございました。

 

 

小川直輝

 

解剖実習が始まる前日、自分は不安だという気持ちを抱えていた。今まで生きてきて人の死に直面したことはなかったし、ましてやご遺体を触った経験などはなかった。いろんな初体験がある中で自分は6週間実習をこなすことはできるのかと不安に感じていた。しかし、一方でついに解剖実習が始まるという一種のわくわくを感じていた。解剖実習といえば医学生の6年間において最も大きな試練の一つであると同時に、膨大な知識を手に入れることができ、大きく成長ができる機会である。6週間後、自分が医学生としてどれくらい成長できているのか少し楽しみであった。

解剖実習が始まると生活は多忙を極めた。毎日遅くまで予習復習し、学校ではかなりの量の実習を進めた。2週目あたりから疲れとそれに伴うストレスが増えていき、きつい日々が続いた。しかし知識が確かに増えていっているという実感があり、少し心地よくもあった。実習の終盤に差し掛かると次第に慣れていったのか、手際よく実習を進めていけるようになった。ところがそれと同時に1日の情報量も多くなり予習復習は大変であった。それらをすべて乗り越え解剖実習を終えた日、6週間に及ぶ長い実習がやっと終わったという安堵と開放感に包まれていた。

自分が解剖実習で大切だと思ったことが2つある。ひとつは実際に見て触れて学ぶことの重要性についてである。予習の時に手引きとアトラスを使って学んだ時はよくわからなかったものでも実際に解剖してみるとすぐに理解できたということが多くあった。百聞は一見に如かずとはよく言ったもので、本で学ぶだけでなく実際に五感を使って学ぶことが重要であるし、効率的でもあるということがわかった。もうひとつは班員とのコミュニケーションの重要性である。今回、自分の班は4人班で実習を行った。上半身と下半身を交互に解剖することになるが、片方の部分の解剖に夢中になっているとほかの班員が解剖しているもう片方についてはよくわからない。解剖を進めていく中で前日どこまで進んだのかわかっておかないといけないし、班員それぞれがすべての部位について理解していなければ試問、筆記試験をパスできない。そのため、手引きのどこまで進めたのかということを実習のはじめに共有しておく必要があり、そこで得た知識についても共有しなければならない。これは医療現場でも似たようなことが言える。1人の患者に多くの人が携わるため、患者の情報をチーム内で共有しておく必要があるのである。

最後に、今回自分は解剖実習でとても多くのことを学んだ。つらかったが多くのことを学べたことはうれしかった。このような機会を得られたのは亡くなった後に、自分医学生のためにお身体を提供くださった方々のおかげである。ご献体された方々は、自分にとって多くのことを教えてくれた先生といえるだろう。このことを肝に銘じ、感謝の気持ちを忘れずに今後医学を学ぶ上で今回学んだ解剖の知識を生かせるようにしたいと思う。

 

 

北出実鈴

 

解剖実習では人体の構造や仕組みを学ぶことができただけではなく、将来医師になる医学生として考えさせられることがたくさんあった。実習を始める前は先生や先輩から体力的にも精神的にも辛いと何度も聞かされてきた解剖実習を自分が乗り切ることができるかという不安とともに今まで私たちと同じ世界で同じように生きていた体にメスを入れなければならないということに対する不安で一杯で他のことは考える余裕がなかった。

実習の回数を重ねていくと不安な気持ちはだんだんと消えていき、特に実習の始めと終わりに行う黙祷でご献体された方やそのご遺族に思いをはせるようになってきた。ご献体くださった方の医療の未来に役立ちたいという遺志があるとはいえ、ご遺族やその方を産み育てた家族の方々の気持ちを想像すると、どうしても自分が解剖を行うことで亡くなった後のきれいな状態で供養してあげられないこととなり、申し訳ないという気持ちがあふれ出してきてしまうのだった。しかし自分にできる最善の選択は実習を放棄することではなく、ご献体くださった方から最大限の知識を吸収することだと言い聞かせて実習を続けた。

また、先生が実習で毎回行う黙祷でご献体くださった方と対話するようにしているというのを聞いてから私も同じようにすることにした。毎回、解剖させていただくことへの感謝の気持ちと今日もたくさん学ぼうという決意を伝えるようにしていたが、それでも足りないと感じた。大切なお身体を解剖させていただいたという恩はご献体くださった方に直接返すことはできない。それでも自分が医師になり一人でも多くの患者さんを救い医療の発展に貢献することによって、この方の願いは果たされるのではないか。そう思いこの実習で一つでも多くのことを学び、恩返しをするためにも医療に奉仕したいという気持ちがますます強くなった。

実際に解剖して身体の中を観察するとその方が生きた証と言える痕跡が数多く見られた。私の班のご遺体は多発性癌により亡くなったと聞いていたが、実際に主に腹部で癌とみられる構造があり、血管もそれに適応する形で側副路が発達した様子なども見られた。座学だけで人体の仕組みを学んでいると人の身体は全て同じように働いていると思い込んでしまいがちである。実習ではこのようにただの模型ではなく、ひとりの人間の構造を、また他の班のご遺体と比較して観察することで人間がどのように生命を維持し活動しているのかを学ぶことができた。人体の仕組みには基本構造があるものの、1人ひとりが少しずつ異なっているということを、身をもって体験できたことで今後の学習もより円滑になるだろうし、将来医師として患者さんの治療にあたる際も的確な判断を導くことに役立つだろう。

 実習最終日、ご遺体を納棺した。用意された棺の中に遺品が入っている班もあった。この人はどんな人生を歩んできてどんな声をしていたのだろう、どんな考え方の人だったのだろうと改めて思いをはせずにはいられなかった。涙を堪えることができない同級生も大勢いた。ひとりの人間が亡くなってしまったのだという実感がこの場で再び湧いてきたことによる悲しみもあった。しかし、たくさんあった感情の中で一番大きかったのはやはり大切なお身体を私たちのためにご提供してくださったことへの感謝だった。自分や自分の家族の人生が終わったとき、献体できるかと問われると正直なところ今はまだそこまでの覚悟ができない。献体するということはとてつもなく大きな決断だ。その決断をした白菊会の方々とそのご遺族に対して心から尊敬したい。そして、ご献体くださった方に感謝の気持ちを忘れることなく今後も生きていこうと思う。また、その方々の期待に応えられるような医師になり社会に貢献するために日々の勉学に精進したい。

 

 

佐野友宥

 

解剖実習は長くて大変である。これは医学生の中でよく言われることである。私も、実習が始まる前はそのように考えていた。しかし実習を終えてみると、全く長いと感じなかった。体感ではむしろあっという間、そんな感覚である。それだけ、人間の体の中の構造の情報量は膨大だった。

ではどれくらい膨大だろうか。ある時、近況報告として人体の解剖を行ったことを周りの人に言うと、とても驚かれた(多くの人は解剖するものとしてカエルや他の動物を想像しているらしい)。そしてある時、ご遺体を模型のようなもので代用できないのかと聞かれたことがあった。確かに、そうすることができれば、いろいろと楽かもしれない。しかしそもそも、人体のすべての構造を忠実に再現した模型を作ることなどできるのだろうか。私はその質問にすぐさま、「無理だと思います」と答えた。なぜなら、その質問をされた時に、剖出に苦労した体内の緻密な血管や神経の構造が、頭に思い浮かんできたからである。あのような緻密かつ繊細な構造を人間の手で作ることなどできない、そう思ったのだ。

しかし、無理だと答えた理由はその一つだけではない。もう一つの理由は、破格の存在である。人体の構造に正解は存在しない。一人ひとり異なる構造を持っている。私の班が解剖したご遺体にも破格が存在したが、その存在を無視して模型として画一化してしまうことは危険であるどころか、破格の発見がむしろ解剖学の発展に重要である。また破格だけでなく、臓器など体の全体的な状態も、死因や病歴によって一人ひとり異なっていて、それぞれ体がそれぞれの人生を物語っているように感じる感覚は、模型では到底得ることはできないだろう。

これらのことを、私は無意識に熱をもって答えていたことを覚えている。それは実習を終えて、ご献体された方を模型と同列に考えられないほど、大切に考えていたのかもしれない。実際、自らのお身体を私たちの解剖実習に提供して頂いた方々には頭が上がらない。その方々のおかげで私たちは貴重な実習を行うことができたのである。毎回の黙祷の時間で、私はご献体された方と対話することができただろうか。毎回感謝の言葉を心の中で投げかけていたが、当然応答はない。それだけに生きている間にお話を聞きたかったと思った。そしてその時、自分は生きている存在であるということを実感させられた。この経験から生きている人間として今自分にできることは、医学を学んで医学の発展に寄与することである、そう考えると身が引き締まる思いである。

ただ、解剖実習はまだまだ終わらない。脳の解剖がまだ控えているだけでなく、そもそも今回の実習でも完璧に把握しきれていない部分もある。医学は発展をやめない限り、常に勉強しなければいけない学問であると考えているが、解剖はその医学の根底に位置する。当然解剖の知識は頭に完全に入れて置かなければならない。

このような思いと高いモチベーションを抱いたのは、正直なところ、医学の勉強を始めた時以来である。これまで基礎医学として学んだばらばらになっていた知識が、解剖学の勉強を通して初めて統合されていく感覚を覚えた。そして、解剖実習が2年生というこの時期に行われる意義を理解することができた。これから臨床医学の勉強に入ると思うが、この思いを忘れずに、勉学に励みたいと思う。そして改めて、ご献体された方々に感謝し、ご冥福をお祈りいたします。

 

 

杉本理紗

 

先日、長いようで短かった解剖実習を終えた。今思い返すと一瞬のように過ぎていった6週間であったが、同時に学ぶ内容がとても濃密な6週間でもあった。解剖実習というのは医学部では皆が通る道であり、始まる前から緊張の気持ちがあった。実習初日、白衣を身につけ遂に始まる、と思いながら実習室の中に入った。ご遺体を前にしてどのような感情が思い浮かぶかは想像もできなかったが、最初の黙祷を終え初めてメスを入れた時は、より一層緊張感を感じ、身が引き締まった。特に慣れない最初の頃は、毎日の長い実習に加えて帰宅してからの膨大な量の予習・復習は正直とても大変だった。自分にやりきれるのか、と思う日もあったが毎回ご献体してくださった方のお顔が浮かび、毎晩努力を続ける動機になった。このような大変な毎日ではあったが、周りには同じ経験をしている同期がいて、同じ班でなくてもわからないことがあれば助け合い、お互いの相談に乗って、皆で乗り越えようとする精神はとても心強かった。

解剖実習が始まり、神経が筋肉を支配しているところや細い神経が体の中を迷路のように存在すること、血管の太さ、などに感動した。今まで他の基礎医学のコースで神経の仕組みや働きについて学んでいたが、実際のものを見ると、この構造によっていま人間が複雑な動きをして、色々な感覚を持つということを実感し、人体の構造の深さにさらに魅了された。

また、解剖実習が進むにつれ最も驚いたのは、人体の構造は1通りではない、ということである。このことは解剖実習が始まる前から知っていたし、このような違いから先天性の疾患などが起こることをも知っていた。だが、実際に教科書には1本と書いてある血管が2本見つかり、臓器の主流な栄養動脈として覚えた動脈がないにも関わらず他の動脈が補っているのがわかり、人生は無限の通りの歩み方がある。それによって、人体の発達の仕方も異なるからこそ色々な特徴のある教科書通りにはならない私たちが存在する、ということを実感することができた。

このような新しい発見が毎日あり、興味を掻き立てられる実習も毎日の課題をこなすうちにあっという間に終わってしまった。実習の最後の日に毎日私たちの指導をしてくださった教員がこのようなことをおっしゃっていた。「あなたたちはこの解剖実習を通して初めて人を診たのだ」生前お会いすることはできなかったが、色々な人生を歩みご献体してくださった方が私の最初の患者さんである、ということを実感し、感謝と感動を感じた。同時に申し訳なさも感じた。最後の解剖実習が終わり少し落ち着いてから思うと、精一杯予習、復習を行い、実習にも励み、やりきった気持ちもある。だが、一生で最後の解剖になるかもしれない、と思うとやり残したことがあるのではないかと不安になってしまった。これから私は、この申し訳なさを全く感じなくなるくらい、最初の患者さんが天国から誇らしい気分になってもらえるような立派な医師になれるように精一杯頑張りたいと思った。

また、この6週間を毎日朝から晩まで学生の指導にあたってくださった教員の皆様に感謝をしたい。私たちの教科書上でしかわからなかった知識に対してご献体してくださった方の色々な特徴に結びつかせていただき、ときには励ましの言葉をかけていただき、この実習を無事に終えるようサポートしてくださり、本当にありがとうございました。先生方の指導があってこそ医学という学問の深みを感じることができたのではないかと思う。

最後に、ご献体してくださった方に感謝の気持ちを述べたい。最後の黙祷をしている時、私はご献体してくださった方と会話をしながらどのような人生を歩んだ方なのかな、と考えた。多分、とても心優しい方であったに違いない。一生私の頭に残る人体の地図をくださり、人体には色々な特徴がある、ということも教えてくださったご献体してくださった方には毎日の黙祷だけでは感謝の気持ちを言い切れなかった。私の最大の先生であり、お身体を最初に診せてくださった先生にお礼を言いたい。ありがとうございました。

 

 

田原沙絵子 

 

基礎医学の集大成である解剖実習を終えた今、本当の意味で医学生としての自覚と責任が生まれたのではないかと感じる。この実習では、人間の構造の理解のための解剖実習というだけではなく、医師に求められる倫理観や責任感および役割も学んだ実習であった。

最後の日に、先生がおっしゃった話の中でこのような言葉があった。「患者さんの病気ではなく、患者さん自身を診なさい。ということを言いますが、君たちはこの解剖実習を終えた今その意味を初めて理解できるのではないでしょうか?」患者さん一人ひとりにはそれぞれの人生・ストーリーがあり、それぞれの思いがある。だからその方々の思いをくみ取る必要があるということを言葉の上では理解していたつもりであったが、あくまでも言葉の上での理解だった。ご遺体には教科書の記載とは違った破格があり、さらに筋肉の厚みや臓器の様子など様々なところからその人の生きてきたストーリーが伝わってくる。患者さん自身でさえも言葉では表現できないような自身の人生を、全身を介して語ってきているような感覚であり、驚きを隠せなかった。具体的に述べれば、私たちの班のご遺体では、癌による影響からか脂肪が落ち、やせ細った外見をしていながらも筋肉・臓器が他班よりも大きく大柄な人であり、何かスポーツをしていたということが想像された。また、一見すると臓器の大部分は正常を保っており、その方の体内で何が起こり、死に至らしめたのかわからなかった。しかし、解剖を進めていくうちに、前立腺癌の転移が左鎖骨下のウィルヒョウのリンパ節にまで転移していたという病気の進行過程を掴むことができ、終末期には全身が癌によって侵されて苦しい思いをしていたのではないかということが想像された。一方、他の班のご遺体では膵臓癌が横隔膜の裏を含めた広範囲に転移していたり、胆管癌によって胆管周辺の組織が固くなっていたりして、一目でわかるほど体内の様子が違っていた。それらを自分の目で直接見て理解した時に、やっと医師になるためのスタート地点に立てたような気がした。患者さんを“診る”ということは、患者さんの全身で何が起きているのか、その真実を見定められることであると思う。その役割は、人体の構造や組織に誰よりも通じ、病気に対する適切な治療を十分に学んだ医師が先頭に立って努めていくものであると思う。患者を“診る”目を持った医師になるためにはそれ相応の知識が必要であり、さらに新しい知識も取り入れ続けなければならない。今までの基礎医学の重要性とこれから始まる臨床的な学びの重要性をこれまでになく感じた。

この解剖実習はご献体してくださった方を始めとして、白菊会の方々、一カ月間ご指導くださった先生方や班員の協力があって成り立っていた。特にこの解剖実習のためにお身体を提供してくださった方に感謝を申し上げたい。そういった方々がいるおかげで、自分が本当に貴重な経験と学びをさせていただけていることを今後とも忘れないようにしていきたい。また、実際に手を動かして実習を進めていく上で班員の協力は必須であった。班員によって解剖している部分が違うため、その日の進行状況を毎日確認していかなければ引継ぎが上手くいかず時間を無駄に使ってしまう。予習復習が必須な上、毎日続く実習で班員の多くに疲れが見え始めるとそういった連携が億劫になり上手くいかなくなるが、その様子に配慮しながら進行が遅れないように進めていくことはこれから臨床の現場に出ても重要であると感じた。これからも、自己研鑽に励み、仲間を大切にしながら医療行為を行える医師になれるような姿勢で臨んでいきたいと思う。

 

 

根岸駿太朗

 

医学生としての学びにおいて特に重大なイベントとも言える、解剖実習を終えた。話に聞いていた通り、一生忘れることのないであろう、濃く、新鮮な6週間であった。実習の初回で白衣に着替え、実習室に入った時点で、これまでの実習とは全く違う空気を感じ、緊張に震えながら先生のお話に耳を傾けた。目の前のご遺体とどう向きあって実習に臨んでいくのか、という予想も覚悟も定まらないまま、解剖実習が始まったのだった。

テクノロジーが発達したこの時代にも、亡くなった方のご遺体を解剖させていただき、学びとするということが行われているのは、一見不思議に思えたことがあった。講義でも実習でも、大学における教育というのは特に、合理性と効率を重視して改革が行われてきたように、私は入学以来感じていた。それは、講義においてデジタルな板書を用いるといった表面的なことであったり、カリキュラムでさえ、医学を学び医師になるために必要な知識をいかに体系化し伝授するか、ということが常に考えられていたりする点だ。その点において解剖実習は、過去の積み重ねを特に重視して学習に役立てられてきたように思える。それゆえに、先人たちの発見を実習書で学び、ご遺体を実際に手で感じとりながら学習を進ことができたのだった。この先どのような改革が起きようとも、医師という職業が、またそれを目指す医学生が生まれ続ける限り、ご遺体での解剖実習が行われなくなることは絶対にないのだと、そう思えた。

世の中にこんなにも、「自身の身体をもって教える」という行為は他にないのではないだろうか、と何度も考えた。たったひとつ与えられた身体で各々の人生を全うされた方々が、見ず知らずの我々のためにお身体そのものを提供してくださる、というその事実。かつて命がやどり、何十年も一人の人として生き続けていたお身体を、隅々まで、何もかも観察し尽くすことを自ら望み許可してくださった勇気とご厚意に感謝せずにはいられない。自分の身体を提供するということに抵抗を持つ人は少なくないだろう。それは、一人ひとりに一つずつ与えられた身体というものに、各々が運命であったり、生んでくれた親への感謝だったり、その人生を通してどこか愛着を持つがゆえで、それは決して責められるべきことではない。特に現代では、人体は持ち主だけのものであって他人の所有物でないという考え方が広まっているためか、客観的にもこの考え方は受け入れられるように思える。形のあるもので、生まれてから死ぬまで不変なものは自分の身体だけ。そんな自分の身体を、たとえ死後であっても手放したくないと思うのは何も不自然なことではない。そんな中にあって献体への登録をしてくださるすべての方に、感謝と尊敬の念で一杯である。亡くなった方に直接お礼をすることはかなわないうえ、まだ未熟である我々が自分の手だけでご遺体から学べることには限りがあったが、それでも感謝の念だけは最後まで一貫して持ち続けること、それが、いま我々に為せる唯一の礼儀であると確信した。気づけば、実習の終盤では、「この方とお話をしてみたかった」などと自然と思うようになっていた。勝手な感情移入は避けられるべきかもしれないが、このことが、自分がきちんと、誠意を持ってご遺体と向き合えていたことの現れであるならば、それはいいことであると思う。

今後、私達が人生をかけて挑まねばならない「人体」というものがいかに深いものであるかを垣間見ることができた6週間であった。今後臨床医学を学ぶにあたっても、この実習のどこかのシーンが思い浮かんで、より実のある学習につながるのだろう。まだ長い道のりではあるが、やがて医師となり世に尽くすという大きな目標のために、これからも研鑽を積み重ねて行かねばならない。そうすることで初めて、形ある恩返しが果たせるのだろう。

 

松吉康志

解剖実習が始まる際、私は今までに体験したことのない緊張感や不安があった。今までの学生生活では教科書や図譜などでの学習がメインであり、実際の人の身体と対峙する授業がなかったためであろう。ご献体された方と初めて対面した時の気圧されるような感覚は今でも鮮明に覚えている。この6週間の解剖実習をさせていただき、医学生として大きく成長できたのではないかと思う。

実習が始まった当初は、ご献体された方にメスを入れさせていただくことに対して「申し訳ない」という思いや戸惑いがあった。しかし、数日後には「医学生として必要なことを学ばせていただくために、生前お会いすることもなかった我々医学生にご協力いただいているのだ。ご献体された方々やご遺族の方々のご厚意に応えられるように頑張ろう」と思えるようになった。その思いを強く胸に刻み、予習・復習にも今までの科目以上に毎日注力することができた。

6週間という長い間、解剖実習で人体の構造をご献体された方々のお身体で実際に見させていただき、「ここはこのようになっているのか」や「ここはあそこと繋がっているのか」というようなことをご献体された方々から教えていただいた。今まで教科書で人体の構造について学習し、理解しているつもりではあった。それでも「百聞は一見に如かず」という諺があるように、実際に自分の目で見ることで初めてわかることが日々いくつもあった。実習を通して、自分の頭の中に地図が広がるように、人体の構造に対する理解をより深めることができたと実感した。

医師として働いている方々に「医学部の勉強の中で重要な授業は何か」というお話をうかがうと、皆さん口をそろえておっしゃるのが「一番大切なのは解剖学である。人体の構造や機能を十分に理解していないと医師としては働けない」ということである。そのくらい貴重な学びを体験する機会を与えていただくことができたことを幸甚に思う。解剖実習に実際に携わることができるのは医学生だけである。解剖実習を経験したことで、「自分は医学生なのだ。医師として地域に貢献するのだ」という思いを改めて強く感じることができた。この実習で学んだことを今後の学習に活かしていきたいと強く思う。

最期に、ご献体された皆様やご遺族の皆様、この度は我々筑波大学の医学生のために非常に貴重な体験をさせていただき、本当にありがとうございました。皆様のご協力がなければ解剖実習はできませんでした。この解剖実習では、今後医師として働いていく上で必要となる多くのことをご献体された方々から教わることができました。皆様の思いを胸に刻み、ご厚意に報いることができるよう今後も勉学に全力を傾注し、よい医師となって社会に貢献できるよう精進して参ります。

 

 

本橋 悠

 

私は解剖実習において、以下のようなことを学んだ。

まず、献体という非常に重要な仕組みについてである。私は解剖実習を始める前、実習に必要なご遺体はどのようにして用意されるのであろうかと漠然と考えているのみであった。しかし、解剖学のカリキュラムの中で献体について知ると共に、実際にご遺体を提供してくださった方を目の前にして、自然と真剣に取り組む気持ちが強まった。ご遺体を解剖していくと複数の病巣が見つかり、当たり前であるが目の前のご遺体も元は病気にかかる普通の方であったことを改めて自覚し、感謝の念も湧いてきた。このように自分の解剖実習への取り組み方をより強く形作ってくださったという意味においても、現在改めてご献体いただいた方に対して感謝の気持ちを述べたいところである。

次に、木も見て森も見るということである。例えば、個々の神経の名前や働きを言葉で暗記することはもちろん重要であるが、その神経の立体的な位置を分かっていないと取り返しのつかない医療ミスを引き起こしかねない。これは机に向かって教科書を眺めているだけではなかなか身に付かず、実際に自分の手で解剖を行うことが重要である。私は逆に、解剖実習の中で自分が漠然と考えていた臓器の位置が全く違うなどといったことを通して、木も森も両方見なければならないということを痛感した。

最後に、病ではなく人を診るということである。教科書や講義で勉強していると機械的に病気のみに視点が行ってしまいがちであるが、実際のご遺体を使わせていただく解剖実習においてはその人がどのような方であったのか、どのような人生を歩んで来られたのかなどといったことを度々考えさせられた。解剖実習の場においては使い古された言葉ではあるかもしれないが、ご遺体は話さないが多くのことを語るというのは本当であるとつくづく感じた。話は変わるが、実習最終日に先生が「夏休みに心の中でご遺体と対話を試みてください」と言っていた。その時点でも既にご遺体を思い出しながら構造的なことから背景的なことまで思いを巡らせたり疑問を持ちかけたりできそうな気がしていたが、解剖のカリキュラムの直後に医師のプロフェッショナリズムや家庭医療について学んだというだけで、ご遺体の目に見える情報の裏にある本人やご家族の感情や事情を重要視しながら様々なことを訊いてみたいと思えるようになった。今後、臨床医学を学び知識を蓄えていく中で、病気の物的情報だけでなく病気にかかった人のことを考えるために解剖実習で得た経験を思い出すことであろう。別の先生の言葉を借りれば今回解剖させていただいたご遺体はある意味私の患者さん第1号であり、私が病ではなく人を診ることを目指す大きなきっかけになったということは間違いない。解剖の知識に留まらない様々な情報を提供してくださった方には本当にありがたい気持ちで一杯である。

以上が、私が解剖実習において学んだことである。このような大きな学びを与えてくださったご献体いただいた方には、改めて感謝の意を表したい次第である。この先解剖実習という大きな経験を忘れることなく、様々な視点で人を診られるような医師になりたい。