令和3年度 優秀作

 

解剖実習を終えて

医学群 医学類 2

松本いずみ

 

6週間の解剖実習を終えて、更に一段階成長できたと思う。解剖初日、不安と緊張でドキドキしながら解剖室に入った瞬間が鮮明に自分の中に刻まれている。そこから6週間は、怒涛の日々であった。1日5時間近く、集中力を保ったまま細かい作業を続け、実習を終えた後は、復習に加えて次の日の予習。6週間、ただひたすら解剖に向き合っていた。解剖実習を終えた今になり、振り返ってみて思うのだが、まるで違う世界で生きていたかのようであった。そのくらい尊くて貴重な日々であった。

解剖実習と言ったら、人体の構造を理解し、将来、治療をできるようにするために行われているものだと思っていた。もちろん、それも重要視されていたが、他にも多くのことを学ぶことができ、また考えさせられた。まず一つ目は、枠にとらわれず、柔軟な思考を持つということである。教科書や実習書にしたがって解剖は進んでいくのだが、想像していたものと実際解剖したものとでは大きく異なっているし、教科書通りではないことも普通であった。その相違を常に疑っていく必要があるのである。これは、今後も通用していくことであると考える。私たちは何事も定義づけされていたり、枠に当てはめて分類したりすることで安心を得ているように思う。そして一旦その位置に落ち着くと、それを改めて疑うのは難しい。しかし、疑い続けないと、新しい発見はないし、何なら過失につながりかねない。例えば、医師が患者さんの診察をし「これはがんですね」と診断したものが、実はがんではなかったということも、常に疑い続けないと気づけないことである。このように、人の体がこんなにも多種多様であったことと、それに気づく視点を持てたことは、将来、患者さんを目の前にして医療を施す際に非常に重要であると思う。

また患者さんに思いをはせることの大切さも学んだ。解剖初日、初めてご遺体にメスを入れる瞬間、あの気が引き締まる思いはいつまでも忘れたくない。こうして、たくさんの方々の支えがあって、自分が医学生として成長できていることを実感した。私が医学部を志願した時には、自分の意志だけで志願したように思う。それが、今回の解剖を通して、ご献体してくださった方々や、そのご家族の意志も引き継ぐのだと思い、改めて気が引き締まった。

この6週間は、ご献体してくださった方の期待に応えられるよう、精一杯猛進した。一つでも多くのことを目の前から学ぶことができるように、学ぶ姿勢を保ち続けた。実習最終日、花束を買いに行った。恥ずかしながら、人生で初めて花束を買った。なんて美しいのだろうと感動するとともに、花束に込めた思いがご献体してくださった方に届きますようにと願った。まずはご献体をしてくださったご本人様に、そしてそのご家族、先生方、最後に、共に学んだ仲間に感謝を込めて。誠にありがとうございました。

 

 

令和3年度 優秀作

 

解剖実習を終えて

医学群 医学類 2

渡部嘉徳

 

 本日、ご遺体を納棺した。ご遺体を解剖台から枕や布団のある棺に移したとき、この方は確かに生きていらっしゃったのだと、そして本来はより自然な形で、もっと安らかな形でいることができたのだと、今更ながら感じた。

実習初日に見た光景は今でも忘れられない。実習室に足を踏み入れると、そこには白い布に丁重に包まれた多くのご遺体が解剖台の上に安置されていた。その光景は極めて神妙かつ非常識的でありながら、どこかやさしさがあるように思えた。納棺式を終えた今、解剖台の上には棺と花束が乗っている。それが言わば本来の形であり、その光景はご献体された方々とご遺族の方々に対する敬意と感謝、そしてやさしさに満ちているように私には感じられた。

ご献体くださった方からは非常に多くのことを学ばせていただいた。教科書の2次元的な絵図が今や実体的な感覚へと自然に置き換わって把握され、それと同時に、実際の見え方との乖離や個人差による多様な型をも理解できるようになった。無機質な活字情報や模式化された図表と現実の生体的現象とが架橋され相互に往来する感覚は、実に不思議であるが、これこそが真の学び、生きた知識なのだと思う。ほぼ全ての感情が捨象された教科書の裏にある、量り知れないほど妙なる命に対する驚嘆や感動の念についても、改めて思惟するようになった。座学と実習を毎日繰り返す中で、自らの学びが如何に責任を伴うものであるか、如何なる態度・姿勢で勉学に励むべきなのかということも痛感させられた。

しかし、実際の解剖においては躓くことが多く、最善を尽くせなかった自分がいたのもまた事実である。構造や状態があまりにも解剖学図譜とは異なっていて思うように剖出できなかったり、思いがけず構造を破壊してしまったりすることが幾度もあった。納棺式で先生が述べられていたように、献体をするのは非常に貴いご遺志によるものであり、ご遺族にとっても尋常ではないほどの心の負担がかかるものであると思う。私自身、母親が献体を申し出ていることに対して非常に複雑な思いであり、未だに葛藤がある。目の前にご献体くださった方がいらっしゃるのは、それら全てを抱えてのことであるにも関わらず、力量不足によって上手く剖出できないでいる自分が情けなく、悔しく、罪深く思われた。そして実習中に何度も「ごめんなさい、ごめんなさい」と言っていた自分がいた。

 

「讃仰、医学徒にはげましと大きな期待を寄せて献体された方々の御霊を永遠に讃えてここにいしぶみを築く」

 

 納棺式の後、私は友人と慰霊碑を訪れた。碑文を読み、ご献体くださった方々やご遺族の方々に想いを馳せ、心の底から何かが込み上げてくる感じがした。今、自分が感じている未熟さを受け止めよ、そして精進せよ、そのように言われている気がしてならなかった。

 末筆ながら、コロナ禍の中でも、こうして解剖実習を最後までやり遂げられたのはご献体くださった方々を始め、大事なことを何度も教えてくださった先生方や身体的にも精神的にも厳しいときに共に頑張ってくれた友人たちのおかげです。心から御礼申し上げます。本当にありがとうございました。ここで経験した全てのことを糧に、決して忘れず、きっと素敵な医者になれるようにこれからも邁進してまいります。

 

令和2年度 優秀作

 

解剖実習を終えて

医学群 医学類 2

穂戸田 勇一

 

「やっぱり俺、医者になるよ」-そう宣言した私に、癌と闘病中だった母は南木佳士の『医学生』という小説を手渡した。解剖実習の様子が詳細に書かれた『医学生』を読みながら「解剖実習って凄いね。尊いね。」と母と解剖実習に想いを馳せた日を覚えている。

あれから数年の月日が経った。セミが鳴く真夏の青空の下、母が眠る寺の墓前に手を合わせて祈りをささげた。とうとう待ち望んだこの日が来たのだ。基礎医学の真骨頂ともいえる解剖学を学ぶことができる喜びと、少しばかりの不安と緊張が入り混じって押しつぶされそうな気持ちを胸に、私は解剖実習室へと足を運んだ。

 解剖実習初日、手の震えが止まらなかった。医学生にだけ許される行為とはいえ、これまで大切に歩まれてきた人生そのものであるご遺体を解剖して良いのだろうか―。優しく大きく包み込むようなご遺体の手を見つめてその人生を想いながら、私は何度も自問自答した。そんな時、「医学に役立ててほしいというご遺志を受け止め、しっかり勉強させていただくのが一番の供養ですよ」と声をかけてくださった先生の言葉に心を救われた。「常に感謝の気持ちを忘れず、ご遺志を継ぐために解剖実習に全力を尽くそう」-そう誓った日を私は忘れないだろう。

 実習は感動の連続だった。自分で手を動かしながらご遺体から学ぶ内容は、どんな教科書よりも貴重だった。図譜とよく似た構造の剖出に感動し、全く異なる走行には頭を悩ませながら、人体の不思議を肌で感じる日々を送った。「ご遺体の構造はまさに歩まれた人生の縮図ですよ」と教えていただいた先生の言葉はまさにそのものだった。たった一つの受精卵からここまで大きな人体に成長できる生命の尊さ、狭い腹腔内に整然と並ぶ臓器の精巧さ、そして全ての臓器が協調して一人の「人間」を作り上げているという不思議。毎日が心震える発見の連続で、医学の奥深さを改めて感じる濃密な日々を過ごすことができた。

 必死に駆け抜けてきた解剖実習だったが、気付けば鈴虫の音が響く秋になっていた。涙雨が降りしきる納棺の日、私たちはご遺体にそっと想いを寄せた。「きっと凛々しい素敵な人だったよね」-故人を偲んで青色のブーケを手向けて手を合わせたとき、ふと涙が溢れた。ご献体、そして解剖実習に関わる全ての人への心からの感謝の気持ちでいっぱいだった。この貴重な6週間の経験は、医師になっても一生忘れることはないだろう。

納棺を終えた日、改めて『医学生』を読み返してみた。あの日、今は亡き母と交わした約束-それは「良い医者になること」であった。解剖実習で学んだのは解剖学の知識だけではない。人や生命に対する尊厳と敬意という医師としての良心であったと思う。私たち医学生に託していただいた尊いご遺志を胸に刻み、一生をかけて立派な医師を目指して学び続けようと改めて誓った。

最後になりますが、6週間にわたり解剖学をご教授いただきました先生方に心から御礼申し上げます。先生方の熱意あふれるご指導に、我々も解剖学を学ぶ本当の意義を学ぶことができました。そして、尊いご遺志のもとでご献体いただいた故人様やご遺族の皆様に心から感謝を申し上げます。この想いを忘れることなく医学を研鑽し、立派な医師になることをここに誓います。本当にありがとうございました。

 

 

令和2年度 優秀作

 

解剖実習を終えて

医学群 医学類 2

鈴木康平

 

 先日、私は筑波大学でのおよそ6週間にわたる解剖実習を終えた。この実習では、これまでの医学の勉強とは大きく異なり、非常に多くのことを実際に自身で見て、触って、追いかけて確かめながら、学習することができた。

 今年は新型コロナウイルスの影響でもともと夏休み前に実施する予定であった解剖学実習が延期し、実際にみんな集まって実施できない可能性もあったが、解剖実習を終えてみると、改めてこうして実習が行えてよかったと思う。というのも、解剖は教科書や電子版のアトラスなどでみるのと、実際にご献体で見るのとではその理解度がまるで異なると感じたからである。実習をする前に「解剖実習の手引き」や図譜などを参考にして予習をしていたが、実習ではまったく教科書通りということはほとんどなく、むしろ異なっていることの方が多かった。また、何がどこにあるのかという知識は、それを「理解」して自分のものとするうえで、言葉だけでは間違いなく不十分であることを痛感した。実際に剖出しようとすると、自分が思っていたところに思っていた通りのものが存在せず、側面にずれて別の場所にあったり、膜をかぶって見えていなかったりと混乱することが多かった。しかし、実習を終えてから振り返ると、そうした混乱にこそ価値があったと気づかされた。それはすなわち、教科書での知識と実際の構造との乖離は、逆に言えば実習を行って、両者の違いに目を向けたうえで剖出しなければ決してわからなかったことだからである。もし、解剖実習が行えずに講義形式になっていたら、得られたものはおそらく今回の半分に満たないであろう。いくら図譜を見て話を聞いて覚えても、その知識はすべてが断片的で有機的ではないので、それを実際に剖出することはできないだろう。これは、臨床の現場ではもちろん、今後医学の勉強を進めるためにも大きな障害となったことだろう。そう考えると、改めて解剖実習の大切さがわかる。

 解剖実習を終えたときに教壇に立った先生の一人が「みなさんはようやく医者としてのスタートラインに立った」と仰っていたが、今はその意味がよくわかる。患者は一人ひとりが医学的にみても同一ということは決してなく、非常に多様性に富んでいるため、教科書にあるような普遍的な知識では対応できない。その多様さを知るということが、この解剖実習で初めて理解できたと思う。これは、今回得た知識を基盤として、さらに今後学習を進め、やがて患者を診るようになっても、ここで得た経験を生かして臨機応変に対応してゆくための「姿勢」ともいえる第一歩を踏んだともいえるだろう。ここでも、「多様性」というものを言葉の上で理解するのと実際にやってみて理解するのとでは、その実感が大きく異なった。

 最後に本実習を行うにあたりご献体された方々に、大変貴重で生涯忘れることのない学習をさせていただいたことに心から感謝を述べたい。