班長の挨拶


■B03班.「モデル脳による記憶、学習、思考の研究」

班長 塚田 稔(玉川大学工学部情報通信工学)

 マルチユニット解析、オプティカルレコーディング、fMRI、MEGなどの計測技術にともなう神経生理学研究の急速な進歩により、脳の高次機能である学習、記憶、思考、推論、更には自意識に関連する問題が実験レベルの検証可能な状況にある。一方、神経回路網の理論的研究においては、神経回路網のダイナミクスとその情報表現の研究、合成的手法による新しい情報創発などの研究が一段と進み、記憶、学習、思考、推論に関する理論モデルの提唱とその実験的検証が重要な段階を迎えている。このような状況の下で、神経生理学、心理物理学、神経回路理論モデルの研究者が協力し、その定式化から具体的な実験タスクを共同で提案し、実験結果の検証やその結果に基づくモデルの整合性を吟味することが重要である。
 B03班では実験と理論の研究者の相互の有機的共同研究を実施し、理論モデルの実験的検証や実験にもとづく新しい理論の構築を目指している。特に、神経回路網ダイナミックスにもとづく情報表現や質的に異なる神経回路網間の情報統合や情報創発の問題を理論と実験の共同研究によって明らかにする。
具体的には、次の2項目に重点を置いて研究する。
1)記憶と学習のダイナミックモデルとその実験的検証
 脳の記憶方式は現在のコンピュータで用いられているアドレス方式とは全く異なる方式と考えられる。それは、神経回路のダイナミックスをアルゴリズムとして神経回路のニューロン間の結合の重み空間に外界の時空間情報を写し取ることによって、内部表現が獲得されるというものである。この重みを変える規則が学習則である。外界の情報をその学習則を使ってニューロンとニューロの結合空間に写し取ることが記憶の書き込みであり、その構造を想起することが記憶の読み出しである。この海馬一皮質系の記憶過程とニューロダイナミックスに関係する理論モデルを構築し記憶の書き込みと読み出しのメカニズムを明らかにする。
 記憶の書き込み
 記憶の書き込みは次の2つの過程からなっていると考えられる。第一の過程は出来事などの情報を時空間の文脈として一時的に蓄える短期記憶の過程であり、海馬にその機能が存在すると考えられている。第2の過程は海馬での短期記憶を必要に応じて長期に安定に蓄える長期記憶過程であり、皮質(連合野)に存在すると考えられている。したがって海馬-皮質系の記憶書き込み過程では2段階の学習課程が存在し、海馬と皮質ではその機能に適した学習則が存在していると考えられる。海馬の短期記憶では時空間文脈を創る神経回路網の構造と学習則の関係を明らかにする。一方、皮質の長期記憶では文脈の類似性や関連性をどのようなアトラクター構造に関連付けて情報表現するかを明らかにする。
  記憶の読み出し
 長期記憶を検索する過程は感覚入力とその予想される文脈を手がかりとして、連合野の記憶であるアトラクター構造を検索することである。具体的には次の2つの過程からなる。第一の過程は手がかり情報を創る過程である。海馬は前頭葉から予想の情報を、また皮質から感覚情報を受け取り予想される文脈を生成する。これが手がかり情報となる。第2の過程は、手がかり情報をもとにアトラクター構造を検索する過程である。この過程では全数検索、勾配法検索、ランダム検索、非線形ダイナミクスを用いたカオス遍歴、文脈を用いたダイナミック細胞集合体検索仮説などの有効性を実験と理論で検証する
2)思考・推論のダイナミックモデルとその実験的検証
 推論過程とニューロダイナミックスの関係に関する理論モデルを構築し、推論機構の神経機構を解明する。推論過程を真理値が連続値である論理で記述し、結論を次のステップの前提と同一視することで力学系に変換する。
 ニューラルネットとの対応をつけるため、真理値をベクトルの真へのスカラー射影と定める。適当な様相を導入することで、推論過程のレベルを定義する。それぞれ、レベルにおいて、対応するダイナミックスの特徴を調べ、理論モデルでの結論を明確に分類する。各レベルに対応する動物実験のパラダイムを新しい論理の枠組みの中で定式化することで構築する。実験家と協力し、この定式化から具体的な動物実験のタスクを考案する。このような段階を経て、実験結果とモデルの整合性を吟味する。推論過程の各レベルに関与する記憶のダイナミックスを神経集団の動的相互作用の観点から解明する。推論過程は、従来記号処理のレベルでモデルが与えられており人工知能研究に応用されたが、本研究においてはベクトル空間を導入することでこれを力学系に変換し、推論過程とニューラルネットのダイナミックスを対応づけることで思考のニューラルネット表現を得ようとする点、さらには推論に関する新しい形式を考案することにより、推論過程をレベルにわけ、それぞれに対応する動物実験の新しいタスクを提唱しようとする点に独創性がある。本研究により、脳の動的相互作用系の1つである思考の基本メカニズムが明らかにされ、推論過程に関与する記憶のダイナミックスの神経機構が解明されると期待される。